バスケ界隈の隅っこで

妄想妄言ファンタジー

他にもっと楽しいことがあるのだぞと思ってる日々

どうも、バッカスのオッサンです。

何度か書いていることかも知れませんが、オッサンの脳では記憶しきれませんので確認せずにまた書きますが、ひょっとしたら書いてないかも知れない可能性もあることをお知らせしておきます。

私、スポーツの現場はあまり好きではありません。

とはいえ、コーチっぽいことを10年以上やっていますので、めちゃくちゃ嫌いということもありませんし、それなりには愛着を持って活動しているわけですが、めちゃくちゃバスケを愛しているというわけではありません。

前回の記事で書いたことでもありますが、ゆとり教育が何をほざこうが、この世はあらゆる場面で優劣がつけられるものだと思っています。

スポーツの現場はそれの極地であり、優と劣をこれでもかと叩きつけられる場所でもあるわけです。

 

単純に勝ち負けがあるので優劣が着くという話ではありません。

試合をしてその勝敗が着く⋯という部分には「まぁそういうゲームだしね」という納得感があるわけです。

それはスポーツだけでなく、カードだろうがレースだろうがパソコンだろうがあらゆる「ゲーム」において勝敗はついて回るものです。

力の差がある場合は一方的な結果にもなりますが、ゲームの勝敗は競い合う両者の間に揺蕩っているものであり、それを手繰り寄せるためのあれやこれやを楽しむのが嗜みです。

 

私がいう優劣とは、個人の評価です。

プレイヤーとしての個人に明らかな優劣が付いてしまう、特にスポーツでは一人の人間としての能力に評価がついてしまうのが、非常に辛いと感じます。

しかもそれが非常に不平等な場合が多いです。

例えば、あらゆる競技で身長が高い人は優遇されますし、足の早い人も同じく優遇されます。

いわゆる身体能力というやつです。

プレイヤーとしての評価でいうと、他にもバスケットボールIQが高いとか、献身的であるとか、そういう評価基準もあるのですが、それらの価値が身体能力に比べて軽く見られる傾向があると、私は感じています。

確かに、身体能力を後天的に身に付けさせることには限界もあるでしょうし、特に身長に関しては世の中の科学がこれだけ進んでも明確な「伸ばし方」みたいなものがありません。

それが得難いものであるだけに、評価は自然と高くなります。

わかります、理解できます、ただ、残酷だなぁと思います。

 

競技におけるIQの高さであったり、献身性であったり、そういうものもタダでは身に付くものではなく、それ相応の努力の結果、得られるものなのです。

そしてそれらは、身体能力で劣る者が強者に対して抗える、数少ない対抗手段のひとつなのです。

それらを鍛えることで所属チームのプレイヤーとしては非常に優れた存在になれるものの、いざリクルートなどの局面になると、評価の優位性において圧倒的な差を見せつけられるのが実際のところです。

 

当然、スポーツをやっている以上、体を鍛えるのは当たり前ですが、特に少年期の成長のタイミングには個人差があり、同じ努力をしても同じ成果が得られるとは限りません。

そこにそもそもの体質や遺伝的な要素も合わさり、人の体は全く持って不平等な素質として、プレイヤーの目の前に立ちはだかっています。

 

それら全て「致し方なし」と受け入れたうえで、残酷すぎて嫌いなんです。

私とて、世の中が平等であるなんて思ったこともないですし、平等な世の中を期待するつもりもありません。

それでも何とか生きるんっすよ⋯という気持ちで、なんとかオッサンにまでなれました。

ただやっぱ、スポーツの現場での個人評価は、残酷が過ぎるという思いがありますね。

だから、スポーツはあまり好きではありません。

もっと少年たちが、頑張ったことを極力正当に評価される世界が他にあると思っています。

私はただただ、無邪気にバスケットボールが好きな子供たちの、日々の成長を助けられたらと思っています。

個人として高い評価は得られなくても、チームの中でしっかりと仕事をしてくれる選手がいます。

そういう子たちと「いいチームを作りたい」と願って頑張る毎日は、わりと嫌いではないです。

たまに腹が立つこともあるけれど、私は元気です。