バスケ界隈の隅っこで

妄想妄言ファンタジー

キーボードで文字を打つことが楽しくて戻ってきてしまう

どうも、バッカスのオッサンです。

自分がブログを持っていることすら忘れてしまいそうな期間が空いてしまいましたが、大丈夫、私は覚えています。

ずっと心の何処かにブログのことがある⋯といえば100%嘘になりますが、書きたい気持ちは常にあり、それと同時にそうするだけの体力と時間がないという情けない現状。

歳は取りたくないものだ⋯とよく言いますが、歳を取って最も失われるものは体力なのかも知れません。

 

果たしてそうでしょうか。

ブログを書く程度のこと、体力的にはよっぽどのダメージがない限りは、気持ちひとつで乗り越えられる程度のことではないでしょうか。

もちろん体力の総量は激減しているとは思いますが、それよりも足りないのではと思われるものがいくつかあります。

 

ひとつは、責任感のようなもの、です。

「責任感」と言い切らずに「のようなもの」と表現する理由としては、実際にはブログを書くことに対する責任は存在しないからです。

ただ、毎日更新が目標だ⋯とか、出来るだけ毎日文章を書きたい⋯だとか、このブログ上で散々書いている分の責任のようなものは感じています。

ここでも何度か書いていますが、ブログを長く続けるためには、そういった責任感に無頓着でいられる方がいいと⋯例えば、毎日更新が滞った時にそれが原因でやる気を失うくらいなら、そんなことには無責任にまた書ける時に書けばいい⋯というのが私のライフハック、50年生きてきた男の学びの集大成ではあるのですが、そこに頓着がないとどうしてもこんなふうに甘えた人間が育ってしまうというか。

やはりある程度は昭和の根性論といいますか、精神論とか神頼みとか、やり続けた者にしか与えられないもの⋯みたいなことを信じて頑張るべきではないのかとも思うわけです。

最近よく思うことですが、私は生まれてから少年時代までを昭和後期から平成初期に過ごしていますが、あの頃は現在のように情報を知る術が少なく、現実として見たり聞いたり出来るものが少なかったので、頭の中で色々なことを補完していたように思うのです。

例えばラジオやCDで音源しか聞けないアーティストについて、こんな人間じゃなかろうかとか、こんな風に生活しているんじゃなかろうかとか、勝手に想像するしか出来なかったのです。

あらゆるモノに対してそういった感じで情報が足りなかったので、頭の中のイメージする分野は、すごく活発に働いていたのかも知れないなと思うのです。

 

ま、それも人によりけりですが。

 

私はわりと情報集めが苦手な人種でしたので、頭の中で想像することが多くて、勝手に想像したものと違う現実を突き付けられて、何だか裏切られたような気持ちになるとかいう、面倒くさいタイプの人間でしたね。

 

話がそれましたが、体力以外に失われたものとして、もうひとつは使命感のようなものです。

こちらも「のようなもの」と付けている理由は、実際にはそんな大層なものはないからです。

しかし、若い時にはそういうものを持っていました、勘違いで。

私なんかが何もなせずに野垂れ死んだところで、世間様には1ミリも影響がございませんのと同じように、何をしようが、何をしなかろうが、自分以外の人には大した影響がない。

でも若い人は違います。

自分に命が与えられたことに、必ず理由があるはずと、何か世界の役に立てることがあるはずだと考えてしまうことがあるはずなんです。多分。

私みたいな者でも、何かを為さずに生きているのは怠慢だと思い込んでいた日々がありました。

しかし、私が成功しようが失敗しようが、実際は世界に何ら影響はありません。

もっと言うと、例えばあるスポーツでプロになるような一握りの才能を持つ人でさえ、ほとんどがそんなに大きな影響を与えることはないのです。

中には、その中でもひと握り中のひと握り、ほんのひとつまみ⋯みたいな選手であれば、世界的に大きな影響をもたらすこともあるとは思いますが、そうなれる人生とはどんなものか、想像すらできません。

 

年を取れば取るほど、そういったことを学んでいくので、自分への期待感が薄らいでいくというか、世間に対する責任のようなものは「ほとんど無い」と考えるようになっていきますね。

もちろん、やってはいけないこと、犯罪であったり、迷惑行為であったりで、悪影響を与えることは容易いので、そういったことに関しては常に責任感を持たねばなりません。

じゃないと嫌われちゃうから。

そういう意味ではなく、「自分が何事かを為す」ということへの責任感や使命感が、ほとんど無いということなんです。

 

そうなってくると、人によっては寂しくも情けなくも感じてしまうかも知れません。

しかし、私がやりたいこと、私が好きなことで、ただ無責任に自分を楽しませ続ければいいのだと考えると、これほど希望に満ちた人生もないよなとも思えるわけです。

この場合、自分が自分の求めるがまま、求めるのは自分で与えるのも自分という形になってきます。

いかにもフリーダムで楽しそうですが、サボったり辞めたりするのも自分勝手にできてしまうため、継続するための工夫が必要になってきます。

私、ブログを書いていても、音楽を作っていても、やはり一人でやっているものですから、どうしても手が遅い。

要は締切りがないからです。

締切りがないというのは、何かを作るうえでは良くないことだと私は考えます。

いつまでも終わらせることが出来ないからです。

慌てないからサボるということもありますが、締切りに間に合わせるというのが、ものを作る作業の終了目標になってくるのです。

それがないと、無限に改善、補修が出来てしまうので、いつまでたっても終わりません。

そのようなことを痛感しつつ、最近はどうにかして締切りを作る方法を考えねばならぬと思っているところです。

 

とはいえ、基本的に仕事が以前よりも不規則になり、ルーティンワークが崩れてしまっているのが、ブログを書けない大きな要因であることも、とても大きな理由のひとつです。

自分を楽しませるというのも、なかなか難しいものです。

その場にて待て

どうも、バッカスのオッサンです。

ああ、愛おしきルーティンワークの日々。

ということを痛感しております。

昨年はわりとブログを書けていたのですが、それがなぜかと考えたところ、人生が低いところで安定していたと申しますか、低収入からの心配事は数あれど、生活のリズム自体は非常に安定していた部分があったという分析結果に至りました。

現在はその日その日の業務における拘束時間も違えば、仕事に使う体力も日々でまちまち。

そのせいで決まった時間、決まったタイミングでパソコンを開くことが出来ない生活となり、自然とブログから遠ざかっております。

 

よくあるサラリーマンの愚痴として、「毎日毎日繰り返しの人生には飽き飽きだ」みたいなことが昭和平成を通して当たり前の考え方のように言われてきましたが、私は逆に毎日毎日が繰り返しのほうが、やりたいことが出来る人間であるような気がしています。

これは偏に性格のお話に過ぎませんが、私は繰り返し繰り返し反復し、積み上げ、コツコツと紡いでいった結果の成果物に魅力を感じる人間のようです。

 

いや、その表現は正しくありません。

私は一瞬の花火のような、その場その場の瞬間の判断できらめくような物も大好きです。

コツコツと積み上げることも大切ですが、エンターテイメントにおいては瞬間瞬間のキラメキが語り継がれるような偉業になることも珍しくありませんし、また、スポーツにおいてもその時その瞬間にしか生まれない感動や、瞬発的な部分に凝縮された魅力があることも体感として知っています。

 

私が申し上げたいことは結局、自分自身が自信と確信を持って取り組むべきことと感じられるのは、コツコツと積み上げた結果の成果物しかないということなのです。

 

最近のこの「ブログを書けない生活習慣」に変わってから気付いたことですが、私は続けることによる細やかな自信を失ってしまいました。

それ自体は本当に細やかなものなので、取り戻すことも簡単ではあると考えていて、要は毎日続けるだけで取り戻せるものなので、大きな喪失というわけではありません。

それまでの私の生活がルーティンワークをするうえで恵まれていたために、ブログを書くことのハードルを容易に上げることが出来ました。

記事の文字数を増やすことを目標にしたすることで、ある意味ではそれがその時のモチベーションでもあったのですが、それが難しい状況に追い込まれると、その目標が逆に簡単に記事をかけないようなハードルとして自身の前に立ちふさがります。

 

これがよくある本末転倒の罠であり、本来は文字を書く、文章を書く、キーボードをカタカタするだけで私は満たされていたはずなのに、そういった楽しみを自分自身で難しいものにしてしまうのです。

人間とは本当に愚かであり、その愚の骨頂たる存在が自分自身であると自覚せざるを得ません。

 

毎日毎日を機嫌良く、その日その日に出来ることを積み重ねるのが、オッサンたる存在の生き方であると散々自分で言っておきながら、それを全うすることが出来ない。

そんな私に私は言わねばならない、「向上心は身の丈に合わせろ」と。

何事も、停滞するよりその先に進めたくなるものですが、私のような愚かな存在になってくると、現状維持すら難しいことと知るべきです。

前進を求めた結果、現状維持よりも後退することになるということを、私はこれまでの人生でも経験してきました。

その反省を全く活かすこと無く、今回も同じような失敗をしてしまっているわけです。

これからは現状維持のみを胸に生きていきたい。

前に進もうなんて、二度と考えたくもない。

良く考えると、いや、よく考えるまでもなく、フィジカル的に人生は下り坂に入っているのは間違いないのです。

その中で現状維持を目標に掲げることは、充分すぎるほどの高望みなのです。

現状維持をするために、まず自己の現状を把握する作業から進めていきたいと思います。

指が動けばそれだけで

どうも、バッカスのオッサンです。

5月だというのに暑い日々だ⋯と仰るかたが私の身の回りには沢山いますが、ここ10年くらいの感じからすると、今年は暑さの面では随分とスロースタートなのではないかと思っています。

大体もうゴールデンウィークには夏の始まりを感じて、そこから上り調子で気温が上がり続けるのがこの頃の常であり、それに比べるとまだ今年は気温が上がったり下がったりがある分、まだ春らしい5月であると感じています。

押し並べていうと、今年はまだ涼しいです。

だから暑いと文句を言うな⋯と言うわけではありませんが、そう思っています。

 

私は趣味として、ブログを書くことと楽器を練習することを続けているのですが、最近はパソコンを開く前にギターに触ることが多くなり、ブログを疎かにしがちです。

基本的に、その日にブログと楽器のどちらをするかというのは、どちらを先に触るかということに掛かっています。

それが全てです。

こんなことを書きたい⋯とか、こんな曲を弾きたい⋯とか、そういったちゃんとした理由の前に、「どちらが触りやすい位置にあるか」ということが全てです。

ギターを触れば、気分のままにダラダラと弾き続けるのが私の趣味ですので、終わるタイミングというのが特にありません。

疲れたら辞めますし、それは即ちその日の終りです。

逆に言えば、ブログを更新するという作業のほうが、一応の終りがあることから、寝る前に一段落を迎える事ができるわけです。

なので、私の人生のタスクである、仕事、バスケ、ブログ、楽器、の4つを一日のうちにすべて詰め込むとするなら、少なくとも楽器を触る前にパソコンを開き、ブログを書くべきなのです。

ブログを書き終わってからギターに触れれば、そこから寝るまでギターを弾くだけです。

 

ブログを書く段取りとしては、私の場合はまずはパソコンを開き、寿司を打つところから始まります。

寿司を打つ⋯とは寿司打のことであり、普通1万円コースで12,000円を3回超えるのがノルマなのです。

こんなものを設定しているせいで、パソコンを開いたもののタイピングの調子が悪いせいで、ブログの更新にまで行き着かないこともしばしばあります。

当然それだけではなく、ブログを書くからには何か書きたいことが、せめてボンヤリは見えていないと書き始めることが出来ません。

毎日毎日書いているときは、それでも何とか体のクセみたいに、文章を書き出すことが体に染み付いていて、中身の薄さは仕方ないにしても、何となく文章らしきものを書くことは出来たような気がするのですが、最近はひと月ふた月更新から遠ざかってしまうもので、そういうクセで書くことも出来なくなっており、ブログに対してすこし構えてしまう状態になっています。

そもそも、誰も読んでないものを書いているにも関わらず、いちいち構えていること自体が全くもって意味不明なのであり、内容なんてどうせ大したことがないのだから、自分の欲である「キーボードをカタカタする」にのみ忠実に生きていればいいだけなのですが、そんな事を気にしてしまうところが私の人間の矮小さを表しているということで悲しいことこの上ないです。

 

ブログの更新が滞るのは楽器の練習に時間を割いているからなのですが、ま、ギターを弾くことに関しては大して頭を使って考える必要がなく、ブログを書くよりは何となくで始められるという利点があります。

文章を書くということは、ある程度は自分の考えていること、主張したいことなどを人に伝わる形として表現するものであると思うので、こんなに適当なことを書いている私でも、ある程度は適当の限度や節度を弁えなくてはいけないと考えています。

音楽の場合は、歌詞でも書かない限りはそういったことは考えなくて済むので、無責任に楽しいままに弾き始めればいいだけ。

 

うーむ、そういったことを考えてみると、仕事とバスケで色々と考えなければいけないことが多くあった時期を、私は過ごしておりました。

それらを頭の中でまとめて文章にすれば、ブログの更新はずっと続いていたかも知れません。

しかし、まとまらないままそれを文章にすることも出来ず、ついつい先延ばし先延ばし。

まぁまとまらないし、それでいて楽しい感じにも書けないし、実際に生活の中で私自身も楽しくない時期を過ごしていたので、結局はそんなときにはブログは書かないのが正解でしょう。

私と同じように、みなさんもロクでもない人生を生きているのでしょうから、そんなことは自分の人生だけで充分なはずで、わざわざ他人の分まで嫌な話を聞く必要もない。

他人の悩みやめんどくさいことに踏み込んでくる人は、ヒマな人と相場が決まっています。

相談されてそれに付き合うことはあるでしょうけども、わざわざ迎えに行くようなものではありません。

 

仕事は相変わらず上手くは行ってないですが、バスケは最悪から転じて前向きなチーム状況になってきており、どちらもとにかく前向きに進めるしかないという状況で、とりあえず方向は決まっているので進むだけ。

この方向すら決まっていないのが非常にしんどい時期であり、それは超えたので頑張っていきたいですねといった気持ちでいます。

どうでもいい近況報告に終止しましたが、性格的にこういうことを書かずに次に進めないところが自分にはある気がします。

もうちょっと人に見せるものでもあるということも考えて、これからのブログは書いていきたいです。

そもそも、誰にも読まれていないということが問題ではあるような気がしますが、誰かに読んでもらうほどのことを書こうとすれば結局なんにも書けなくなるような気がしますし、才能がないということはコレほどに悲しいことかと感じています。

 

ま、私は指を素早く滑らかに動かすことに快感を感じていたいだけなので、この作業が出来るだけ長くたくさん続けられるように、しつこく取り組んでいきたいと思います。

キーボードを打つことにも少しブランクが出来てしまっているので、これが一番の問題です。

由々しき事態です。

指先の動きが私にとってはいちばん大事なのです。

 

カタカタと音がする

どうも、バッカスのオッサンです。

随分と長いこと、ブログの更新を怠ってしまいました。

こうなってしまったキッカケは、腰をヤッてしまったことだったと思います。

腰というのは肉月に要と書きますが、ほんとに身体の要なのだなと痛感。

痛めてしまうと何をするにも不便というか、何をする姿勢も取れないというような始末。

自宅にちゃんとした作業机がない私は、普段からダイニングテーブルやごろ寝でPCを触っているのですが、そのせいもあって腰には負担がかかりやすいようです。

しかし、ちゃんとしたデスクやチェアが揃った環境でPC作業をしたこともないので、それが揃った場合に腰を傷めないかと言ったらそれも確認は出来ていません。

 

そして、腰を痛めたのはほんの数週間であり、今回、確認するのも億劫になるほどブログから長く離れてしまったことと関係があるのかどうかというと、それはただのキッカケではあっても不能の要因ではない!ということで、要はサボりにサボっていたわけであります。

人間とは弱い生き物です。

 

このまま書かずにブログのことを忘れてしまうことも出来たのですが、どうやら私は本当に文章を書くことは好きなようで、辞めてしまうことも自分が求めることとは違いました。

実はこれまで、やりかけてはすぐに手放したブログというものが、2つほどあります。

どちらも何度か記事を書いて、続けていくつもりだったのですが、それがなかなか出来ませんでした。

続けるということがなぜだか難しく、それはやはり今考えると、「好きだから書いている」というなかば諦めにも似たような気持ちを強く持てなかったからだと思っています。

「好きだから書いている」ということがなぜ私の中で諦めと似たような気持ちなのか。

一見するととても前向きな気持ちのような気もするのですが、私の感覚としては少し違います。

逆に「好きだから⋯」以外の気持ちは何なのかというと、当時の私はまだまだ厚かましく、ブログで少々の稼ぎに繋がるかも?とか、文章を書くこと以外の副次的なものを求めていました。

それはすでにそう簡単に得られるものではなかったこと、そして、文章を書くという「楽しいこと」以外のやましい気持ちが、結局自分として受け入れがたいものであり、ブログが楽しくなくなってしまったのです。

ただただ単純に文章を書くことを楽しんで、キーボードをカタカタする快感に身を委ねていれば、私は体力が続く限り、文章を書き続けられるのかも知れません。

あ、その文章が面白いかどうかは別の話として。

しかし、書かなければいけないことが決まっている⋯決まりすぎているものは、私には書けないのかも知れないなというのが、経験からくる自己分析です。

 

これは要約すると、自分の書きたいことを書きたい形で適当に書き続けることしか出来ないということを言っているに過ぎないので、自分の無能を高らかに発表しているだけなのです。

ああ、情けない。

しかし、それを続けることで「自分のやりたいことをやっている」という自己満足を得られます。

自己満足が自己肯定感に繋がり、ちょっとだけ何かをやったような気になって、機嫌良く過ごせるということを、私はこのブログを通じて学びました。

要するにこのブログは、人生における様々なことが上手く行かない情けないオッサンが、申し訳程度に自分を慰めるために書かれているものに過ぎないのです。

だからこれは諦めなのです。

文章自体は何の役にも立たないが、自分のためには書いたほうが良くて、だから仕方なく書くことを選ぶ。

私にとって文章とは、ブログとは、そういったものなのでしょう。

 

今どき自虐は流行らないかも知れませんが、私はこうしてずっと生きてきたのであり、例えば取るに足らない大した事ない行いを過剰に宣伝し、何かを為したようにアピールし、一時の注目と金銭を得ようとするような行為は恥知らずと感じてしまって出来ないのです。

実際のサイズ以上に自分を大きく見せるようなことが、何だかやっぱり恥ずかしい行為と感じてしまうのは、果たして何を起因とするのかということは、これは世代が原因なのか、親の教育のせいなのか、さっぱりわからないところではあります。

 

というわけで、これからはまた取るに足らない文章を、毎日の習慣として書いていけたら良いなぁと思ってはいます。

が、私もサボっていた間に別に何もしていなかったわけではなく、文章を書いていなかった分、楽器の練習に精を出したりだとか、別のことを進めていた部分もあります。

バスケの方も色んなことがあり、チームを指導する者として、初めて経験するようなことにも見舞われました。

単純に文章を書くこと以外にやりたいことがまだまだあるということで、これは年甲斐もなく欲張りなことで困ったことだなと思っています。

全てが上手く回るように、最適なバランスを探りながら、自分の人生でやりたいことはどんどんやっていきたいと思います。

 

いやー、しかしやはり私は指を動かすことが好きなようで、こうしてキーボードを打つ行為にしても、ギターやベースを弾く行為にしても、指を滑らかに動かせることに対する満足感が非常に高い。

もっともっと満足に動かせるように、私は自分の生きている時間を有意義に使いたいと思っています。

無駄なことをやっているのがすごく勿体ないので、もっとやりたいことだけやっていこうと思っています。

オッサンには無駄や遠回りをしているヒマがないのです。

凹んでいるのも勿体ない。立ち止まっているヒマはない。

誰の人生も、すぐそこに死が迫ってないとは言い切れないのです。

しっかりと指を動かしていきたい。

腰にやさしく

どうも、バッカスのオッサンです。

情けないことに腰をやってしまいまして、またパソコンに向かうことから遠ざかる日々です。

体の不調で元気に動けないときこそ、パソコン作業のような動きの少ないことに取り組むべきチャンスと思っていましたが、実際に腰を痛めてしまうと、ほとんどの作業に支障をきたすことを実感します。

肉月に要と書いて「腰」とは上手く名付けたもので、腰とは身体の肝心要なのでありまして、腰がダメだと如何なる体勢も長時間持続することが難しくなり、動かずにジッとすることで腰を固めてしまうと、次の体勢に移るために動き出す際に、一旦コンクリートで固めたのかと思うほどに背中周辺が硬直し、それを下手に急いで動かすとまたバキッと痛めてしまう「振り出しに戻る」状態になってしまいます。

そういった時にはゆっくりとゆっくりと様子を見ながら、絶対にピキッとならないように最大限の注意を払って体勢を変える必要があり、要するにもうそういったことが面倒くさくて仕方がないというのが腰痛の最も嫌なところです。

腰が固まる状態にならないためには、ゆるやかに体勢を変え続ける必要があり、そういった状況とパソコン作業は非常に相性が悪いのです。

それでも私がパソコンを使って仕事をする人間ならば、何とか誤魔化し誤魔化しでも作業をすることが求められるわけですが、幸か不幸か私はそういった働き方をしていないため、私にとってのパソコンは残念ながら生活必需品、または仕事の必需品ではなく、まだまだこの機器と私との距離は遠いのだなと実感することにもなりました。悲しい。

 

まさに「腰を据えて」作業をすることが出来ず、また当然アクティブに動き回ることも出来ないので、若干時間を持て余すような感じなのに、じっと何かに集中することも出来ない。

そんなわけで、いろんなことをチョロっとずつやってみる生活をしています。

私がやりたいことというのは、年齢のわりには沢山あるのですが、それもどうだかなぁ⋯と思う部分もあり、本当に手放すことが出来ないものを選んでいこうということを考え始めていて。

仕事はまぁ当然の義務として「やりたいこと」ではないから考えても仕方がなく、そうなるとバスケ、音楽、読んで書いて、の3種類で私の人生を回していくのが堅実かなと考える流れになっています。

バスケや音楽について毎日なにかの活動なりをすることで、その時に感じたことやなんかを備忘録的に書き記す⋯という自家発電的な作業が、私のこれからのライフワークで良いような気がしてきてます。

特にバスケについては、何かしら考えさせられるようなことが毎日起こるので、そういった意味で本当に中学生といっしょに活動していることは、オッサンにとっては刺激的なことなんだなと思います。

取り巻く環境という意味では、時代の流れやテクノロジーは比べるまでもなく違いますが、彼らがその年代に抱える悩みやぶつかる壁には私がかつて経験したものと通ずるところもあり、それに対して人の愚かさを噛み締めたり、淡い気持ちに懐かしさを感じたり⋯と、そういった感情は映画やドラマなどで久しぶりに味わうのがオッサンとしてのスタンダードかも知れませんが、私は毎日実際に目の前でライブでそれを鑑賞しているため、やっぱりリアリティーがちがうというか、ベースの重低音は腹に来るよな⋯に近い感覚で思春期を眺めています。

私はあくまで彼らの青春の傍観者であり、そして時に不条理を突きつける側の悪役ですが、世の中の大多数のオッサンとは違う距離感で違う世代の人間と関われるというのは、人生の経験としてありがたいものだなと思います。

ま、腹が立ちすぎてそう思えない日もありますが、それもまた他ではない経験。

 

音楽についても、重い腰を上げて、何かしらの活動をしていこうと思っています。

私が音楽について好きなことというのは、主に作曲です。

作曲と言っても、譜面の読み書きができるような知識はないため、ギターを弾きながら歌う程度のものですが。

そもそも、バンドブームの頃に音楽に出会った私は、どこの馬の骨とも知れないそこらの兄ちゃん姉ちゃんが作る音楽が好きなのであって、そういった知識や学識ではなく、何となく勘で作られるようなものにこそ親しみを感じます。

バンドブームの時に世に出た人たちが、全員そういう人たちとは思いませんが、そういう人たちの音楽が好きなのです。

もちろん、しっかりとした歴史と理論に基づいた音楽も素晴らしいのはわかるのですが、好き嫌いは感覚ですので変えられません。

私にも音楽理論を勉強しようかな⋯と考える時期はありましたが、結局そんなに夢中になれずに投げ出しました。

そんなやつでも出来るレベルの音楽を、私は愛して止みません。

ギターがジャーン、ベースがブーン、ドラムがドカドカ鳴ってるだけで、結局私は幸せなのです。

芸術的な高みとは全く別次元の、ただ自分が好きで楽しいだけの音楽を、作ってみたいなーと思っています。

これはまた時間をかけてしまいそうな気もするので、そうならないように完成度の低いものを目指していこうと思います。

軽やかさは正義。

 

そういった感じで、バスケと音楽を楽しみながら感じたことを、こうして虚実織り交ぜて書き殴るというのが、私の生活の完成形なのだと思います。

やりたいことの、とりあえず全部乗せ、全部盛り。

この3輪を元気よく回していくことが、当面の目標ということになりそうです。

忘れそうでしたが、腰はまだ痛いので無理はしません。

ただ、無理をしないで幸せが訪れるほど、人生は簡単ではない。

ああ悩ましい。

が、悩ましいという思いは悪くない。

書くことは楽しいので、迷わずに書いて良し

どうも、バッカスのオッサンです。

毎日毎日、書いては読んで、書いては読んでを繰り返すだけで生きていきたいのですが、それとは別のこともしなければいけないし、したくなって来るというのが困ったところで。

どうやら私が何らかの専門的な変態になるためには、この厄介な自分の性格と戦っていかなくてはいけないようです。

文章は好きですが、音楽も好きであり、バスケにはちょっとばかりの義務感もありながら、仕事は仕事でそりゃ大事なので、人生というのは本当に忙しいものだなと感じます。

優先順位というものを付ければいいという話だと感じる方もいらっしゃるでしょうが、私個人としての優先順位と、家族の一員としての優先順位、そして社会の一員としての優先順位など、優先順位を決めるための基準の優先順位を決めなければならないというような有り様で、こんな事を考えているから私は未だに何者でもないままオッサンに成り果ててしまったのだと思います。

ま、それを悲観したところで私が何になれるかというと、「暗い気持ちを抱えた悲観的なオッサン」という救いようのない者にしか慣れないわけで、これは全くもって世の中に必要のない存在だと私は思います⋯まぁこれは私個人の感想であるわけで、もし自分がそういう「暗い気持ちを抱えた悲観的なオッサン」と自認される方がいたとしてもその人の存在を否定するものではありませんのでお気を確かに。

人には人の、他人には他人の考え方や価値基準があり、私はそれを否定したいとは一切思っていません。

いや、それはある条件では嘘になります。

私にとってはバスケのチームに関しては、価値基準をチームのみんなで揃えるべきだと考えており、そこで用いられるものとしての「価値基準」は、これは私の趣味趣向を超えて関係者の皆々様によって構築され、磨き上げられていくものであるべきと考えておりますし、またそれは必ずしも守られる必要があるものであると考えています。

ということは、バスケのチームとして共有された「価値基準」に関しては、その場所限定ではありますがそれを否定するようなものを否定しなければいけない場合もあります。

そういったものとは違う、全くのフリーなスペース、フリーな環境、つまりは人それぞれの心の中にある価値基準に関して、私は全く干渉する気も何も無いということを言いたいだけです。

全くもってクドクドと、長くそして読みにくい文章を書いてしまっているわけですが、このブログを最近では最長で放置してしまったことから、人としてなんだか申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ち、そしてとにかく気まずい気持ちからくる自責の念を、兎にも角にもたくさんの文字で誤魔化そうという魂胆でキーボードをひたすらタイプしているのです。

ブログの更新が滞ったこと自体は誰に謝るほどの存在でもないのが悲しいのですが、今こうして読むのに疲れるような文章を書いていることに関してはとても申し訳ない気持ちでいるということはお知りおきいただけると幸いです。

 

果たしてこの間、私が何をしていたかというと、別にそんなことを知りたい人間はこの世にいないということを理解したうえで書きますが⋯なんせ文字数をたくさん書きたいので書きますが⋯主にバスケのことに振り回されていたのと、それに対する自分の心の在りように振り回されていたわけです。

心理的にはそういった要因があったわけですが、それが私の実体をもってどのような生活様式として表現されていたかと申しますと、なぜだかやる気が起きずにスマホを眺めているうちに時間ばかりが過ぎていきつつ気づけば寝落ちする⋯というようなロクでもない日々を過ごしていたわけです。

今を生きるオッサンとして皆様に今一度声を大にして申し上げますが、スマホはダメでロクでもない機械であります。

特にお家時間をスマホによって消費されてしまうことに関しては、人類みんなで気を付けて欲しいと思っています。

なんせスマホときたら、時間だけは消費するくせに生産性が低く、特にやはり動画を見始めると次から次へと調子よく、興味があるのか無いのかわからない、ギリギリ微妙な線を突いたオススメが際限無く表示され、持ち前の探究心ならまだ良いものを、あとで冷静に考えれば極めて興味の薄いものに対して延々オススメ連鎖の数珠つなぎを享受してしまうという、罠そのものみたいな機械なのであります。

こんなものは持っていないほうが幸せである。

これはきっと本当のことです。

しかし、連絡手段としてのこいつを手放すには私のカリスマ性が足りない。

そう、人はカリスマならば連絡手段を持たなくても許されるしなんとかなるのです、多分。

カリスマという言葉が胡散臭いとおっしゃるならば、私風に表現するなら変態、そう変態。

何かひとつを極めし変態ならば、もっと自分都合で生きていけそうな気がしているのです。

それが幻想であったとしても、少なくともスマホを常にポケットに入れていないといけないような生活からは解放されると信じています。

スマホを放棄したとしても、世の中には類似の連絡手段があります。

パソコンとかね。

LINEだろうがメールだろうが、連絡はすべてパソコンで受け取るというような生活が、私の憧れです。

常にスマホを開いているよりは、常にパソコンを開いているような生活の形のほうが魅力的であると私は考えます。

パソコンにはキーボードがあるので、タイピングを練習している私ならば、そこそこの速度でもってコミュニケーションを取ることが可能です。

電話なんていらない。

それよりも文面でのコミュニケーションをメインにしたいのです。

ま、そもそも電話をかけることも受けることも少なくはなってきていますが、そうなると実際に現状すでに文章でのコミュニケーションをたくさん行っているはずで、それの効率を上げるためにはパソコンを常に開いている方が便利。

⋯そうなっていないのは、私がまだまだウロウロしながら働かないといけない⋯回りくどい言い方をしてしまいましたが、要するに私はデスクワークを主とした働き方をしたい人間なのかも知れません。

これまでの人生を振り返ると、それとは全く逆のブルーカラー全開の生き方をしてきているわけなので、己の計画性のなさというか、何も考えずに生きて来たツケを払わされているだけというか、考えたところで私にそれが出来る能力があったのかどうか甚だ疑問でもあり、そしてこれは自分ができなかった、そうはなれなかった世界線への単なる憧れ、高望み、ないものねだりであるだけという線も否定することは出来ません。

 

しかし、人が何かに憧れることにどれほどの罪があろうかと!⋯私はそう考えるわけです。

人の夢は憧れから生まれ、そしてそれを叶えることで文化や文明は進化をしてきたはずです。

それを失ってしまっては、人が人ではなくなるというか、人としての最も尊い価値を失ってしまうことと同義ではないかとすら考えるのです。

人は身の丈に合わない夢を見て、それを実現するために尋常ならざる努力をしてきたのです。

もちろん、全ての人間がそうではないですし、それは努力を出来るかどうかの話だけではなく、努力をしたところで届かなかった人はたくさんいたかも知れないということでもあります。

そうではない人たちは歴史に名を残せませんでしたが、そういった多くの人達のお陰で、一握りの成功者が目立って褒められることになっているわけで、世の中の成功者の皆さんは私のような人間への感謝を決して忘れることがないように気を付けていただきたい。

私達はあなた達を褒めています。

あなた達もそうして下さい。

 

そんなわけでして、こんなにも内容的に何も書いていなくても、文字数だけは何となく書けてしまうというのが本当に恐ろしいことであります。

そして私がこういう物を書いていて結構楽しいということも、恐ろしいことであります。

ただしかし、私は音楽にしろ何にしろ、大して意味もないようなものが大好きなのです。

意味はないけど、ただ楽しいもの。

そういったものに魅せられて、踊らされて、私はここまで来ちゃったのです。

やっちゃったなこれは⋯という思いはありますが、そういった趣向はほぼほぼ自分の人格と一体化してしまっていて、これから変えようにもどうにもならないだろうという諦めがあります。

気に入っているから、アッサリと諦められるのでしょう。

 

さあ、こんなブログでよろしければ、またお越しください。

意味のない文章を書いていますが、意味などないので逆に安心です。

何かよくないことに導かれることもないのですから。

毒にも薬にもならないとは、こういうもののことをいうのではないでしょうか。

最近ほんとに危ないと思っていること

どうも、バッカスのオッサンです。

3月ももう半ばを過ぎて、人の入れ替わりが激しい季節がやってまいりました。

私の場合、仕事上ではそんなに人が移り変わる職場ではないため、季節を感じることすら最近は減っています。

一番季節を感じるところは、正月や盆休みという大きな休みのところになってきますが、それすらもここ数年は段々と希薄になってきていて。

あまりそういった節目に対して、世間の空気もそんなに変わらないような気がしてきているのですが、それは私が50年あまり生きてきたせいで単純に慣れてしまっただけかも知れません。

正月すらも大きなイベントでは無くなってきているのは、それがそんなに楽しみなものでも無くなって来ていることのような気もして、いささか淋しくもあります。

しかし、3月は学生のペースに合わせざるを得ないような、卒業と入学という大きなイベントがありますので、こちらのほうが自分の感覚としては大きなイベントになりつつあります。

 

バスケのチームとしての節目というのはそれぞれのチームで様々かと思いますが、秋から年末にかけて3年生にとっては最後の大会というものが行われ、年明けに全国大会があるものの、ほとんどのチームの引退試合は秋に決着がつきます。

それを終えた3年生は、基本的には受験勉強の期間を過ごすこととなり、チームとしても新チームでの活動が増えていきます。

そして2月3月に受験を終えた3年生は、また高校に向けて体力作りをするため、チームにパラパラと戻ってきます。

我々のチームは12月に新チームとしての体勢を迎えるわけですが、この2月後半から3月の期間にまた3年生が戻ってくることで、非常に中途半端な時期を過ごすことになります。

 

ま、気持ちはすでに新チームに移行しているので、受験を終えた安心感からフワフワした3年生とのテンションの行き違いというか、そういうものがチームに不協和音をもたらすというか。

実際はそこまで大袈裟でもないのですが、ただ3年生があまりにも浮つきすぎていると、バスケとは別のことで注意をしないといけなくなり、正直に包み隠さずに言うと「邪魔すんな」という気持ちになることもしばしば。

ま、この一年間をともに過ごした3年生を邪険にするのも違うかなと思うので、なんだか妙に気を使いながら過ごすことになるのが嫌だな〜という季節です。

 

我々のチームでは、年々、選手の意識レベルの低下を感じている⋯ということは、このブログで何度か書いています。

基本的に私はクラブチームを部活の上位互換と捉えています。

それは試合の結果や実力が必ずしも上にあるという意味でもないですし、そこには地域性も絡んでくるので、一概に全ての場所でそうですよという話ではありません。

私が活動する地域での限定的なお話として読んでいただけると幸いです。

 

私の活動する地域では、クラブチームは部活動で物足りない選手が選択する活動形態であるという認識が、浸透しているように思います。

私自身もそう考えている一人であり、部活よりももっと専門的な技術であったり、レベルの高いものを求める選手のために活動するものだと考えています。

しかし、ここ数年の選手の様子を見ていると、選手または保護者のほうはそれほどそういった感覚で見ていないような気がしてなりません。

簡単に言うと、とりあえず所属しているだけで満足しているような状況で、取り組み方のレベル、努力のレベル、真剣さのレベルにおいて、選手本人も保護者も良しとするラインが恐ろしく低い。

私から見ると、誰にでも出来るレベルの努力を、誰にでも出来る強度で行っているだけで満足しており、全くもってこの競技において自己実現をしようとするような気概が見て取れません。

技術を向上させて強豪高校でも通用するような選手になろう⋯とか、全国レベルに届くような選手になろうとか⋯それどころか「もっといいプレーヤーになろう」という気持ちすら感じない子供もいるほどです。

これは指導者にとって、非常にやりがいの薄いことであり、こういう選手ばかりになると、もはやチームの存在価値すら無くなってしまいます。

幸か不幸か、ギリギリなんとか一部の選手のやる気のお陰でチームは存続しているようなもので、ほんの2,3年前にくらべても、その比率は悪い方に大きく傾き、練習に行くたびに疲労困憊する頻度が増しています。

 

「やる気のない子供をやる気にさせる」という活動にも価値はあります。

しかし、私はそれをやりたくてチームを立ち上げたわけではありません。

「やる気があるのに環境が悪いためそれを活かせない子供たち」のために、チームを立ち上げたわけです。

部活の悪口を言うわけではありませんが、私が活動する地域の部活動では、競技レベル、指導レベルがミニバスよりも劣るチームが多く、ミニバス経験者の子供たちにとって、適切な指導を受けられる環境が整っていませんでした。

世の中の変化に伴い、学校の先生の仕事も大変になっていて、いわゆるモンスターペアレンツや問題行動に対する対応に追われることが多く、私の中学生時代のようにガッツリと部活動に取り組むことが難しくなっています。

闇バイトなどで警察沙汰の話も少なくないようで、激しい地域の先生だとしょっちゅう警察署に出向くようなことが日常茶飯事だそうです。

そういった社会全体の変化もあるので、出来ることは自分たちでやろうと立ち上げたのが我々のチームです。

誤解のないように改めて書きますが、部活の活動レベル、指導レベルを下げているのは学校の先生のせいではなく、社会の変化とモンスターペアレンツのせいです。

ま、「モンスターペアレンツのせい」という部分は私の実体験からくるバイアスがかなり強く反映されているので、無視していただいて構いませんが。

 

話を少し戻しますが、やる気のある子がそのやる気を発揮するために、私はお手伝いをしたいと思っています。

なので、「ウチのコをやる気にさせて欲しい」というような要望には応えられません。

本人に予めやる気があって、共に過ごしていく中でその程度が変化する分に関しては、こちらの責任というか、うまくモチベーションを設定してあげられてないのかなと反省することもありますが、入部した最初からやる気の薄い子をどうにかこうにかするということは、自分の仕事として設定していません。

もちろん、こちらがそういう考えであることは入部前に伝えているのですが、その部分を深く考えていない家庭が多いような気がしてなりません。

子育てに関わることは、もっと真剣に考えて欲しいなと思います。

「やる気が微妙な子」について、悪い印象を与えるような書き方になっていますが、私はその子が悪いとは一切思っていません。

評価の基準を我々のチームにおいているので、その基準では劣っているという評価になるというだけの話ですので、その子自身を一人の個人として貶めるつもりはありませんし、何一つ、批判する気はありません。

私達とは考えが合わないよ⋯というだけの話であり、出来ればそのへんを理解してもらって、その上で「そういうふうに取り組むべき場所だったのか」と切り替えてやってくれるなら、喜んで一緒に活動していきたいのです。

そういった考え方の部分を理解し、しっかりと説明してあげるのは、親御さんを始め家族の仕事ではないのかなと、私は思うのです。

私自身がかつてそういった活動をしていた子供の親でもあったので、余計にそう思います。

 

チームやバスケに関わる部分で、子供が成長の糧とする部分に関しては、チームの全員で個々の成長のために取り組むべきだと思いますが、そもそもバスケに対する気持ちが微妙だとか、そんなに向上心はないんですけど⋯みたいなパターンはこちらでは扱いが難しいのです。

それはバスケを通して成長したいという気持ちが、我々の活動の軸になることだからです。

めちゃくちゃど真ん中の芯になる部分なのです。

 

そんなに上手くならなくてもいい⋯しんどいくらいなら頑張らない⋯苦手なことはしたくない⋯試合になんて出たくない⋯

 

などと言われたら、こちらは何を目標として何を教えればいいのでしょう。

もちろん、ここまでひどい言い草を直接ぶつけられたことはありませんが、そういうふうに指導者に感じさせる行動をとる子供が増えています。

私が不思議に思うのは、そういう子供の態度を見て、何も言わない保護者の姿勢です。

 

私、これを愚痴ではなくて、問題提起として書いておきたいのです。

前述しましたが、中学校も小学校も、先生の仕事は学業や部活に集中できないほどに大変です。

また、バスケなどスポーツの指導の界隈でも言われているように、暴力や暴言などを用いた指導に対して、学校の先生ともども厳しく規制されています。

私としても、暴力にはもちろん反対ですし、暴言に関してはどこからがそれに当たるのかは個別の関係性に寄るところもあるという思いはありつつも、基本的に排除する方向で納得しています。

その他、セクハラやパワハラの類いも、基本的に無くしていかなければいけないことと理解していますし、気を付けて指導に当たっています。

先生や指導者がそれらをしっかりと守り、子供を傷つけることのない指導を徹底することは、とても大事なことなのです。

では保護者の皆さん、誰があなたのお子さんに、厳しく当たってくれるのですか?

世の中の厳しい部分、そして度を越すというライン、そういったものを誰が教えてくれるのですか?

ここにこそ、私は保護者の方々に危機感をもってもらいたいと思っています。

 

こういう世の中になったからこそ、子供の教育に危機感を持たなければいけないのは、家庭の方だと思うのです。

子供の方に乗っかって、モンスターペアレンツになっている場合ではないのです。

外の世界では、誰も怒ってくれないし、殴ってもくれない。

学校であれ、クラブチームであれ、先生や指導者に出来ることは制限されているのです。

自分の社会的な立場を棒に振ってでも、金八先生よろしく顔面にビンタを食らわせてくれるような人が⋯他人が、いると思いますか?

甘えないで下さい。

決してあなたではないと思いますが、学校の先生にクレームを入れまくるアホな保護者のせいで、自分の子供の過ちを正せない「子供に嫌われたくない保護者」のせいで、指導者に出来ることはすごく狭められているのです。

 

誤解のないように再び書いておきますが、私は暴力や暴言はダメだと言っています。

家庭内暴力についてもそれは同じです。

殴れと言っているわけではありません。

ただ、例えばお子さんの態度が目に余る時、指導者は少ない手数の中から何かをしなければなりません。

それに頼るのですか?

あなたが自分の子供をコントロールできないのに、あなたより手段の少ない他人に頼るのですか?

私はコレ、現場で見ていて本当に危険なことだと感じています。

自分の感覚で言うなら、飾りみたいな親が多すぎます。

子供を育てるということにかける情熱が、微塵も感じられません。

家の外で子供が何も教えてもらえないということに、もっと危機感をもって下さい。

私はバスケに関わるところは教えることが出来ますが、基本的にはバスケ本体を教えたいのです。

技術や練習方法、トレーニング方法、競技の考え方、そういったことを教えたいのです。

生活態度が悪い選手が多くなればなるほど、そういったことにも時間をかけざるを得ない場合もありますが、そんなことをしていたらバスケは上手にならないし、私の気持ちも冷めていきます。

ああ、今年はバスケをするところまで行けないなって。

 

とにもかくにも、私はバスケがやりたいのであり、バスケを真剣にやっていると、必然として人は育つのだと思っています。

これはバスケだけじゃなく、その人のやりたいことならば何であってそういうものだと思っています。

何かを極めた人は全てに通ずるようなところがありますが、極めるまでは行かなくても、物事は共通項でもって繋がっていて、どこか別の場所での考え方が違うところで生きたりするものです。

人間が育つとか、そういった部分はあくまで副次的な効果であり、逆に「人間を育てる」を標榜しているようなバスケチームにはバスケの技術向上を目指して入る人はいないと思うんです。

そういうチームがもしあれば、人間を育てて欲しいと思う保護者さんはそういうチームを選んで下さい。

私はバスケがしたいです。

バスケをするために邪魔なものは、極力排除したいです。

家庭の中の人間と、その外側の人間と、その両方とバランスよく接して、バランスよく学べることが、スポーツをやっている子供の良いところかなと思っています。

私も頑張りますが、それ以上にあなたのお子さんについてはあなたが頑張るべきでしょう。

当たり前のことを書いてしまい、申し訳ありませんでした。