バスケ界隈の隅っこで

妄想妄言ファンタジー

それぞれに良いところがあるという話

どうも、バッカスのオッサンです。

日々オッサンとして活動していく中で、やはり夏の暑さは歳を重ねるごとにひときわ厳しく、狭い路地の小さな信号を何も気に留める様子もなく赤信号で通過していくお爺さんの自転車なんかを見ていると、身の危険から苛立ちはするのですが、ただでさえ弱った認知の中、この暑さの炎天下ともなれば、それくらいギリギリで道を走っているお年寄りもいるのだと考えておいたほうが、私の人生にとっては良いような気もする今日このごろです。

そもそも車が通る道の全ては危険なものに違いないのですが、危険なお年寄りの自転車に対して寛容さのない己の精神もまた、同じように追い詰められているかのようで恥じるばかりです。

もっと余裕を持って生きるべきだと思います。

ただ、己の身は己で守らねばならんのも世の常というか、例えば70年も生きた人生の終わりがボケーっと自転車に乗ってたら信号無視をしてしまい車に轢かれて死にました⋯では少し寂しい気もするので気を付けていただきたくもある。

私はそんな死に方はしたくない。

 

以前から書いておりますように、私はロックに少なからず影響を受けて生きてきたものですから、常識とか言う奴は信じちゃいけねぇぜ⋯と今も薄っすら思いながら日々を過ごしておりまして。

オッサンになるとこれがまためんどくさくもあるのですが、例えばバスケの練習試合などで指導者が顔を合わせた時、ある程度は調子を合わせて世間話を出来る方が場が円滑に進むこともあり、そういった時に無理やり「普通の人」というものを意識して振る舞わねばならないときがあります。

いやいや、そんなことは気にしないでありのままの自分で良いじゃないかと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、ありのままの私というのは他人と話すことなどないと思っているような閉鎖的な人間ですので、そんな奴と一日練習試合で時を共にするというのはお相手側からすれば苦痛でしかなく、そんな思いをさせてしまったならばチームの活動に支障をきたすため、最低でも「イヤじゃない人」くらいには思われる努力が必要なのです。

そういう場面で初手から「俺は他の奴らとは一味違うぜ」的な雰囲気を出してくる人もたまにいますが、そういう相手ならばこちらもあまり遠慮せずにやれるというか、大抵の場合は「あ、面倒くさい奴だな」と思ってあまり関わらないようにするのですが、たまーにそういうタイプで嫌いじゃない感じの人がいたりするので、人間って面白いよなと思います。

その人の面白いところを見つけられたら、タイプが違ってもわりと好きになってしまったりすることもあるので、とりあえず初対面で反発しないようには気を付けています。

 

ロックの解釈は十人十色でかまわないと思うのですが、そんなふうに振る舞える私をロックじゃないと⋯まぁ昔の私なら思っていたんでしょうけども、私自身がロックではないとしても私はロックが好きなんで仕方ないよなと思っています。

そんなふうに思えるくらいに、年を取ると図太くなるのでしょう。

 

いやそれにしても、ロック界隈に心酔していた頃によく「これはロックだ」「あれはロックじゃない」みたいなことを誰も彼もが言い合ってたような気がしますが、本当にめんどくさい界隈だなと今になって思いますね。

そんなことはどうでもいいから、お前の人生を前に進めろよと、昔の私に言いたい。

議論に意味があるような気がしてなんたらかんたら理屈をこねていましたが、そんなことよりギターを握ってちょっとでも新しいことに挑戦するほうが有意義でした。

結局は音楽をやってるんでね。

気持ちや体が反応する音楽かどうかが全てと言うか。

本来間口の広さがロックの魅力であるはずなのに、中にいる「つもり」の人間がそれを狭めよう狭めようとやいのやいの言ってるという。

全くもって意味のない、無駄なことが起こりうるのが愚かな人間の営みでございます。

 

私はいま、バスケに対して真剣に取り組んでいるわけですが、こちらのほうがある意味、正解と不正解がハッキリしがちです。

バスケの技術というのは、ある程度は満遍なく、一通り何事もできるに越したことはないですし、何かだけに特化してもあまり活躍できません。

いやいやいや、ステフィン・カリーや富永啓生はディフェンスは苦手だけど、スリーポイントだけで一流選手じゃないですか⋯と思っている方がいればそれは正しくなく、そういう何かに特化したように見える選手も基本的なスキルは人並み外れて高いです。

その中でもスリーがスゴイっていうことです。

スポーツというのは得点であったり、記録であったり、最終的には数字で上回ることが至上の命題であるため、そのぶん評価の基準もハッキリしやすいですね。

勝つか負けるかなので、要は上手いと上手いが戦う戦場になります。

技術なり、戦術なり、それぞれの特徴はあれど、上手いと上手いが上手さを競う形になります。

ところが音楽は、下手と上手いが勝負できます。

勝負?⋯音楽において何が勝負かは自分で書いていてわからないところでもあります。

が、上手いと下手が同じステージに上がって、下手のほうが評価を勝ち取ることもあるのが音楽です。

そりゃ、場所にもよりますけどね。

 

そんなふうに私は考えているので、バスケを散々やって帰宅し、音楽に触れる前にはマインドを切り替えないといけません。

ふと思うのですが、より人の一生に近い考え方というのは、どちらの方でしょうか。

私は音楽のように考えて生きるのが楽しいような気がしているのですが、人によってはスポーツのように考えて生きたほうが良いと思う人もいるのでしょう。

私にとってはスポーツのほうが擬似的というか、そこでしか経験できない、鍛えられない部分があるものと思っていて、それはつまり生活からは遠いものだと思っています。

やって無駄ではないと思っているので、続けているわけです。

でも生活というか、人間の営みの本質は音楽的であって欲しいと思っています。

価値観は勝ち負けのように統一されたくはないですね。