どうも、バッカスのオッサンです。
過去2回の記事からもわかるように、何も書くことが思いつかないところからでも、とりあえずそのこと=書くことが思い付かない⋯ということから、文章が生まれることもありまして。
まぁ、ちょっと大袈裟に生まれるとか言っちゃいましたけど、要は話が始まれば何とか次の言葉が出てくるというような、そういう出たとこ勝負的な書き方もあるもんだなと思った次第でありまして。
ちゃんとしたテーマなり何なり決めるよりも、とりあえず書き始めてみるということが大切なんだと思いました。
ま、その結果として完成した文章が面白いかどうかはまた別の話でして。
良くも悪くも所詮は日記みたいなものなので、あまり自分に期待しないで生きていきたいと思っています。
「自己肯定感」という言葉をよく聞くようになったなと思うんですが、ちょっと前から⋯のつもりがよくよく考えてみたら10年以上前からそういう感覚でいるよなって思うことがあります。
オッサンになるということは、そういうことです。
時間の感じ方がおかしくなってきたというか、時間の感覚が広くなってきたというか。
よく、10歳の一年と、40歳の一年と、80歳の一年は、それぞれ1/10,1/40,1/80と人生におけるパーセンテージが違うので、感じ方が変わるのは当たり前だと言われます。
それと同じで「ちょっと前」という感覚も、年令によって延びていくのだと思います。
こういう感覚のズレで、若い人たちと話が合いづらくなっていくのも仕方ないなと思います。
一応、それはそれで自覚している方が良いと思うので、仕方ないで置いておかずにそこをちゃんと考えておくことは必要だなと思っていて。
なんせ私が普段相手をしているのがバリバリ10代真剣喋り場のみなさんなので、感覚のズレは修正しながらお話していかないと、伝わりづらくなってしまいます。
バスケの現場は時間が命と心得ていますので、できるだけ効率的に話を伝えるための努力を惜しんではいけません。
まぁ長い期間を経て伝わるということもありますが、掛ける必要のない時間はできるだけ削っていかないと。
えー、書いてる途中で見事に話が変わりましたが、ホントは自己肯定感について書きたいんでした。
忘れてました。すみません。
この「自己肯定感」という言葉は、あくまで自己否定で苦しんでいる人たちを救うために使われる言葉であって、そもそも自己否定できない人たちには用のない言葉だと思っています。
心が健康な人であれば、私は自己否定も人間として必要なことだと思っています。
自分のダメなところに向き合ってこそ、どういう方向に成長したいかという目標も生まれてくると思いますので、自分のことを肯定してばかりだと、そういう目標自体が立てられないのではないかと思うんです。
世の中的に、そういう言葉が必要なほど、心が弱っている人が増えたということもあるのかも知れませんが、誰にでも必要な言葉でもないと思っているので、乱用は控えたいですね。
と、どんな流行り言葉を使うにしても、それくらいのことは考えてから使いたいなと思うわけですよ。
情報としてその言葉を深く知るということよりも、自分がそれについてどう感じて、どう考えるかという部分をちゃんとやりたいというか。
考えた挙げ句にめちゃくちゃ暴論に辿り着いたとしても、世の中で言われる通りの受け取り方に落ち着いたとしても、否定と肯定の両方でもって、その言葉をしっかり吟味したい。
そういった意味で私には全く納得できないことがひとつありまして。
JBA公式がよく使う、「人間力」という言葉にいつも引っかかるのです。
人間力とは何?
なんとなくザックリした印象では、言わんとしていることはわからなくもないような気がするのですが、それがこの言葉の罠であるような気がしていて。
何かを言っているようで、結局何も言っていないような表現じゃないのかなと私は思っているのです。
百歩譲って性善説に立ち、「人間=良き人間」とするのであれば、人間力という言葉も少しは実像が掴めそうな気がしてきます。
が、私は悪しき人間も人間であると思いますし、そもそも良いか悪いかをどこで決めるのかというのはとても難しい問題であると思います。
日本のバスケットボール協会であるところのJBAは、私なんかよりは当然大きな存在ではあるのですが、それでもJBAごときが人間の良し悪しを規定するのは出過ぎた真似と言わざるを得ません。
恥知らずも甚だしいと。
思考放棄も甚だしいと。
もっと深く考えれば、もっと別の表現が見つかると思うんですよね。
私はバスケを通じて、子供たちにはものを考える人になってほしいと願っているので、そういう部分が気になってしまいます。
JBAちょっとアホっぽいぞと、私は思ってます。
私は悪しき人間なのかも知れません。