バスケ界隈の隅っこで

妄想妄言ファンタジー

楽器における金額という要素ほど本質とかけ離れたものはない

どうも、バッカスのオッサンです。

このブログの記事というのは、私が「あーこういうことについて書きたいなー」と思ったことを適当に書き始めてみて、思いつくがままに適当に書いているものです。

基本的にあまり内容は詰めずに、フンワリとしたイメージだけを持って、何となく書き出した文章につられて出てきた言葉を並べていくという、非常に不真面目な書き方をしています。

出来るだけ支離滅裂にはならないように心がけていますが、読みにくいところは多々あると思いますので、そんなものでも読んでいただける方には感謝の気持でいっぱいです。

 

さて、今日はわりとギターやベースに触れられた一日だったのですが、ふとギターやベースの物の価値というものを考えました。

私が所有している楽器は、市場的には大した価値のないものばかりで、しかも自分好みに改造を施しているものがほとんどですから、世間一般を基準とする物の価値としては非常に低いものと思われます。

ただ、私個人の価値観で言うと、どの楽器も手放したくない程度に愛着があり、金銭的価値だけでは計れない大切さがあります。

一本一本に出会いからこれまでの歩みを含めたストーリーが有り、どれも手放すには惜しいものばかりです。

 

ギターの改造というものについて私見を述べますが、まず、闇雲に何も考えず、何の意図もない改造というものは、存在しません。

そこには何らかの目的と希望と冒険心が詰まっており、ギターの改造というのはある意味でロマンの探求であり、夢が詰まったものという解釈で私は生きております。

「この音を理想に近づけたい」「憧れのあのギターのような見た目にしたい」「この機能を追加すればもっとバラエティーに富んだ演奏ができるかも」といったような、今よりもっと素晴らしい未来を思い描いて施すのが、ギターの改造というものです。

現状のままでは物足りない部分があり、それを良くしていこう、理想に近付けようとする行為ですので、とても前向きな行為です。

ただ、その改造が上手くいくかどうか、思ったような成果を得られるかどうかは、対象が「音」という感覚的なものですので、何らの確証もないまま突っ走る気概が必要です。

そういう意味で、改造は冒険でもあります。

 

私の愛機にムスタングというギターがあります。

Fender社の廉価ブランドSquierの製品で、そもそも値段的には底辺クラスの物ですが、やはりそれなりに物足りないところを多く抱えるギターでした。

これを何とか満足できるところまで持っていきたいと考え、細かい説明は省きますが、いろんな改造や微調整、部品交換、ノイズ処理などを行い、現在とても整った状態を維持しています。

もっとも気に入っている部分は、改造、調整前よりも弦の振動が素直になった部分です。

 

改造や調整はギターの「造り」の部分にアクセスする行為ですが、もうひとつギターの音を良くする方法として大切なのが、「鳴るまで弾く」という行為です。

これは、たくさん弾くから鳴るようになるのか、たくさん弾くことによって弾き手がそのギターの鳴らし方を覚えるのか、明確にはわかりません。

わからないので、その両方だ⋯というのが俗説的には通説です。

とにかく、そのギターの良い音は、たくさん弾くことによって理解が深まるのは間違いないです。

斯くして、私のムスタングは愛機と呼ぶにふさわしい私の大事なギターとなっております。

 

このムスタングが、新品の同機種のギターよりも価値が劣るとは私は到底思いません。

しかし、これを売りに出したとして、果たして新品以上の値段が付けられるかというと、絶対にそんなことはないだろうと予想されます。

ギターを弾く人なら絶対に、新品と私のムスタングを弾き比べたときに、私の方を気に入ってくれると思います。

しかし、値段は新品のほうが高いでしょうねと、私自身も思います。

そういうことを考えていて、物の価値とはなんぞやと、今日は思ったのでした。

 

そもそも、エレキギターは投資目的の購入もあることから、今や何千万円するようなモデルも存在します。

しかしそれは、ギター本来の音を鳴らす楽器としての価値とはかけ離れた、もはや目的が違った用途の価値でしかなく、私にとっては意味のない値段だと考えています。

何千万円までは行かなくても、数百万円レベルのビンテージギターは沢山あります。

それすらも、私にとっては意味のない値段のものです。

いや、私だって、名機を愛する気持ちはありますから、唸るほどお金があるならそりゃ欲しいなと思うものもあります。

ただ、そこに無駄な金額が乗っかっていることが、私の感覚ではどうしても理解し難く、どうしても欲しい物にはならないという結論に至るのです。

 

音というものの価値が、私にとっては固定化されていないのも、そういうふうに考える一因かもしれません。

「どうしてもこの音じゃないと」というものが、私にはありません。

どんなギターの音にも、それなりの魅力があるというか、要は使い所が大事なわけで、ギターとしてはしょぼい音でも、演奏する音楽にあってればそれはそれが正解なわけで。

結局は、私の中でギターの音というのは音楽ありきで選ばれるものなのです。

そして、音楽に対するギターの音の応えはなにか一つに決められるものでもありません。

その日の気分で変わってもいいし、演奏する人が変われば求める音も変わってくるはずです。

そういった価値が流動的な部分というか、固定化されない部分が音楽の魅力であると思っていて、だからこそ永遠に答えが出ないまま、ずっと演奏は続いていくのだと思うのです。

そんなものに対して、金銭的な価値基準というのはあまりにも不釣り合いではないかと思います。

 

楽器の価値は、好きな音がなって、弾きやすい、好きな見た目のものという3点で決めてしまっていいと思います。

それを満たすものが20万円の場合もあれば、3万円の場合もあるのが、現在の世の中の不思議で理不尽で致し方ないところ⋯というのが、私の結論です。

金額には、楽器本来の価値を決定づける要素はありません。

それより何よりいちばん重要なところは、楽器を鳴らす腕前を磨くことと、聞いた人の心を動かす音楽を演奏することかと思います。

お金も時間もかけるべきなのは、本来はそこじゃないかと思いますね。

 

ただねぇ⋯ギターもベースも死ぬほどカッコ良くて可愛いので、新しいもの欲しくなるんですよねー。

 

自分で作ったものは可愛いのだがそれを捨てる必要もある残酷な現場で子供が笑う

今週のお題「自分で作った◯◯」

どうも、バッカスのオッサンです。

今週のお題が「自分で作った〇〇」ということですので、それにまつわる何かを書いていこうと思います。

私、いわゆる「ジサカー(自作er)」と言うほどは手先が器用ではないのですが、わりと自分で作ったと思えるものが好きな人間です。

昔は工場に勤めていたこともあり、金属の加工は少々心得があるのですが、残念ながら私が興味のあるエレキギターやベースの改造にはあまり役に立たないことが多く、所有するギターやベースの改造、並びに修理に関しては、手先が死ぬほど起用でDIYに死ぬほど向いている友人の手を借りることに決めています。

メンテナンスなどはギターやベースを弾く人なら自分で出来ることも多いですが、私のその友人はハンダ付けなどの配線系から木部の塗装までやってしまう奴なので、いっそのこと職人になってしまえばいいのにと思っています。

ああいう人を自作erと呼ぶのだろうと私は感じているので、その友人のせいで私の中の「自作erと名乗ること」のハードルが上がってしまっているかも知れません。

 

ものを作ることに関しては私はあまり得意な方ではありませんが、今まで「自分で作った〇〇」と呼べるものがないわけではありません。

自分で作った曲、自分で作ったバンドなど、昔は音楽に一生懸命でしたし、今ならバスケにおいて、自分で作ったチーム、自分で作った練習メニュー、自分で作ったオフェンスシステム&ディフェンスシステムなど、わりと沢山あるような気がします。

ま、練習メニューやシステムに関しては、まるまる一から作ったとい言うよりは、どこかの何かを引用してチームに合った形に落とし込んだというものがほとんどですが、この作業にこそ私はコーチとしての価値があると思っているので、大切にしている部分です。

情報だけは豊富にある時代ですから、バスケの練習方法やチームのシステムは、Youtubeを中心にいろんな媒体で紹介されています。

ですが、それをそのまま自分のチームに落とし込むというのは実はほとんど不可能なことです。

特に小学生や中学生を対象としたチームなら、毎年メンバーのサイズは変わりますし、特徴も変わります。

小さい子から大きい子までバランス良く揃っている歳もあれば、私のチームでは大きい子が居ない年が多いのが普通ですし、またどのサイズの子がチームの中心なのか、誰に多くの仕事をさせるべきなのかなど、その年その年でシステムの変更を余儀なくされるくらいの変化があるのが当たり前です。

トライアウトなどで自チームのスタイルに合った選手を選べるようなチームならまだしも、我々のような中小零細チームでは、いま目の前にいる子供たちに合わせた形を作っていく必要があるのです。

 

これは愚痴ではなく、違いをお知らせしているだけであり、毎年毎年違うことをしなければいけないということが、この作業を飽きなくさせている要因でもあり、私自身としてもタイプが違うチームを経験すればするほど、自分の中にパターンを蓄積できるというところもあり、総じて言うと私のチームは強制的に私を成長させるための装置として非常に優秀なのであります。

ただ、コーチが自分のスタイル=チームのスタイルを固定して、選手がそこに合わせるような形も、決して悪いものではないと思います。

人によってはそれが最も素晴らしいチームの在り方だと思う方もいるでしょうし、そっちが優勢でもなんの文句もありません。

私は私が楽しみながら、子供たちにも自分の能力を活かしながら、伸ばしながら、楽しく強くなって欲しいと思っているので、押し付けるよりは形を掘り出す作業のほうが性格的に向いているのです。

もちろんスポーツなので、体を鍛えないと強くはなれないので、しんどいことは超えていかないといけないです。

それに、速さや高さや頑丈さなど、基本的な能力は必要最低限と思うところまでは伸ばさないと、私の言ってることなんかはただの逃げの発想になってしまいます。

全てを完璧にこなせているわけがありませんが、少しでも理想に近づくように⋯という毎日です。

 

そんなわけで、私がもっとも「自分で作った」と思えるもの⋯というか、自分で作っていかなければいけないものが、自チームに関することです。

そこを一番頑張っていかなければいけないのですが、でも作ったものは作ったもので、私にとっては練習メニューやシステムの評価などは実はどうでも良く、最終的にはいいチームになれたかどうかが大事なわけで。

モノ作りの観点から言うと、おそらく作ったものにどんな評価がされるかが大事なところだとは思うのですが、私の(バスケの)場合は、作ったものを利用して選手がどう成長したか、チームがどう成長したかが大事なわけで、あくまで作ったものは「道具」でしかないという感じですね。

最終的に評価されるのが「私が作ったチーム」じゃないかと思われるかも知れませんが、最初に申し上げたそれは「私が立ち上げた」という意味で私が作ったチームということであり、毎年毎年のチームは「みんなで作ったチーム」でなければいけません。

みんなが力を注ぎ合って、今年はこんなチームが出来ましたよ⋯と、野菜の品評会に提出するような気持ちですね。

すみません、農業には明るくないのでそんなものがあるのかどうかも知りませんけど。

今年も秋となり、収穫の季節が近付いております。

美味しいお野菜を皆様にお届けできたらと思っております。

 

自分を追い込むような練習のやり方は私にはもう出来ないしやったら多分終わる

どうも、バッカスのオッサンです。

昨日はルーティンの安定の話をちょっとしましたが、安定と退屈は背中合わせなもので、あまりにも安定が過ぎるとそれに飽きてきます。

毎日同じ事の繰り返しだぜ⋯というのは石器時代からありそうなお馴染みの愚痴かと思いますが、同じ事⋯と言っても微妙に毎日は違うわけで、それを愚痴りたくなるというのは主に精神に負担がかかっているということではないかと考えます。

要は、飽きている。

毎日起きている少しの変化をガン無視して拗ねるほど、その繰り返しに飽きてしまっているということだと思います。

そういう時は、あえてその流れの外に出てみるのが良いような気がします。

 

私は以前から申告しています通り、このブログを書く前に寿司打でタイピングの準備運動をカマしてから記事を書くようにしているのですが、それをする意味というのはタイピング能力の確認を毎日しようという目的からです。

ブログの文章を打つというのは、毎日違う文章を打つということですし、ある日にはスラスラと打ち込むべき文が出てくることもありますが、別の日には打ち込むよりも文を考えている時間のほうが長い日もあります。

口から出任せならぬ、指から出任せを信条にしている私ですらそうなので、一般的にもそんな感じじゃないかなと思います。

「こう打ち込む」と確定した文章を打つ純粋なタイピング能力と、文章を考えながら打つ能力は少し違うものであり、タイピング能力の維持と確認のために毎日寿司を打つと決めてきたのですが、ここに来て少し寿司打に飽きてきている自分もいます。

タイピング能力の確認に寿司打を用いることは、やりたいことに対して別に意味を持っていません。

飽きてきたなと感じたら、簡単に変えても良い要素の一つです。

こういうことにはフットワーク軽く、スッと次の物に切り替えていったほうがいいでしょうね。

 

ギターやベースに関しても同じようなことが言えるのですが、くり返し毎日同じ事をするのが気にならない時は、そのまま続ければいいと思うのです。

ただ、それに飽きてきたときには、すぐに次のことをしたほうが良い。

変に練習のルーティンを義務化してしまうと、それが重くなってきて、新しいことに挑戦できなくなってしまいます。

次のことに興味が沸いたら、それまでのルーティンを見直して、また新しく組み直すという作業をしたほうがいいです。

真面目な人ほど、やらなければいけないと決めたことに縛られすぎて、それが重荷になって、それをやり切れなくなった自分を否定してしまいます。

新しいことをしたくなったら、それをするための時間というものは必ず必要になり、一日の中でベースの練習に使える時間を考えたとき、今までのメニューは簡素化するかやめるかしないと成り立つわけがないのです。

我々の生活は悲しくも時間に縛られています。

その日だけの思いつきのお遊びならともかく、毎日続けていこうとすることに関しては、必ずそれに打ち込める時間というものが決まってきます。

その時間内にその日にやることを収めていくということが、継続性においては重要なことだと思います。

 

まぁ私が学生であったりもっと自由な立場であれば、こんなことはあまり考える必要もないのかも知れませんが、オッサンの時間と精神力と体力には限りがあります。

すぐに限界が来ます。

なので何をするにも効率良く、そして真面目すぎず、楽しいと感じられる範囲で活動するのが大事です。

間違って頑張りすぎてしまうと、結局その無理した分を取り戻すのに、一週間以上かかってしまったりするんですよ。

頑張ったらダメなんです。

あくまで楽しんでやらないと。

 

想像してごらん、笑って元気で機嫌の良いオッサンだらけの世界を、見た目はともかくとして

どうも、バッカスのオッサンです。

平日のルーティンが安定した生活を送っております。

安定はしていますが、それが別にベストというわけではなく、ただただ時間割りが完成されているというだけで、中身はもうちょっと良いものにしていきたい。

そして負荷を減らしていきたいのですが、それはもうちょっと先の話かなというところ。

 

たとえば、ブログについてももう少し手を入れていきたいというのは正直なところです。

画像を貼ったり、リンクを張ったり、動画を貼ったり、そういうことをして見た目に美しい、見易いブログを作ってみたい気持ちはあります。

が、今のところは行き当たりばったりな記事を書くのが精一杯。

そういうことに時間をかけるには時間割りが忙しすぎて、何かを削る必要が出てきます。

けれど、削れるものが何も無いというのが現状。

 

どちらかというと、他のことを削ってでも手を加えていきたいのはギターやベースのほうです。

こちらはハッキリと申しまして、目標設定が全くない状態で、何となく楽しいからやっているだけの活動です。

闇雲に手を動かすのも無駄ではないのですが、せっかく興味を持ってやっていることですから、もう少し前に進んだり躓いたりして、具体的に形にしていきたい。

今はただただ楽器を触って練習している風の時間を過ごしているだけなので、これは言うなれば何もしていないよりはマシというような状態。

特にベースに関してはハッキリクッキリ初心者ですので、出来ることが非常に少なく、かと言ってあくまで我流で学ぼうとしておりますので、どんどん欲張って新しいことをしていかないと、多分飽きます。

はい、経験上、今の流れでダラダラやってると、飽きます。

ま、私のような性格の人が他にいるなら参考になるかも知れないので書いておきますが、一つの曲をわりと一生懸命に覚えようと頑張るのは頑張るのですが、その曲の完成度にこだわりすぎるあまり、他の曲に手を付けないような性格をしています、私は。

その性格の良くないパターンとして、一曲できたら満足してしまうパターンがひとつ。

もうひとつが、その曲で躓いたまま、練習自体に飽きてしまうパターン。

この2つのパターンにハマりがちです。

 

私のような特に才能に恵まれてもいない一般人が、何かにこだわり過ぎたところで、既に誰かが行き着いた結果にしかたどり着けないのは目に見えています。

そういうこだわりの末に辿り着いた真理のようなもの⋯真理というと大袈裟ですが、ここでは小袈裟にライフハックと言いましょうか⋯その辿り着いたライフハックのようなものは既に誰かがハウツー系Youtubeで発表してくれているものであり、今更それで人の役に立つことはありません。

ま、自分でもがいて辿り着いたことは、自分にはすごく意味のあることなんですがね。

しかし人の文明の歴史は誰かのライフハックに乗っかって、その先に技術や知恵を伸ばし続けることで進化してきたのです。

⋯言い切ってしまいましたが大丈夫でしょうか?

まぁいいか。

 

まぁとにかくですね、利用できるものは利用して、ワープできるところはワープして、物事を先に進めることを躊躇してはいけないと思うわけです。

楽器なんかはどれだけ知恵を借りてワープしたところで、実際に手を動かすところは訓練でしかないので、そこはワープできないわけです。

バスケなんかもそうですね。

どれだけ知識がついたところで、体を動かして得た感覚を超えることはありません。

結局、何をやろうと地道にやらなければ行けない部分というものは存在するわけですから、都合の良い近道はないんです。

もしあるとしたら、それはすぐに使って良いものです。

それを使ったとしても、長い道のりは待っていますから。

 

私の悪い癖でまた話が逸れてしまいましたが、せっかく何かをやろうと決めたからには、それに飽きない努力と工夫が大事かなと思うわけです。

特に私なんかはオッサンですから、何をやっても「無駄じゃないか?」という呪いの言葉がつきまとうわけですよ。

私はここでハッキリと断言しますが、やってて楽しいと感じることに無駄なことはないです!

何もかもが目新しく、キャッキャキャッキャとはしゃいでいられる子供とは違うんです、私達オッサンは。

こんなオッサンになってまで楽しいと感じられることが、無駄なワケがないのです。

どうかオッサンの皆さんは、楽しいことに取り組んで、機嫌の良いオッサンでいてください。

機嫌の良いオッサンだらけになれば、世の中はきっと素晴らしくなります。

私はそう信じています。

 

体力100でも精神力0ならそれは結局体力0みたいなもんではないかと思った日

今週のお題「体力」

どうもバッカスのオッサンです。

3連休というと3連バスケが当たり前。

そんな生活を10年以上続けております、バッカスのオッサンです。

 

バスケのチームを指導しておりますと、一日がだいたい3コマに分かれてきます。

午前、午後、夕方から21時までの夜間、とほぼ公営体育館のコマ割りと同じような活動の形になるのが、よくある活動形態かなと思います。

「3連休、3連バスケ」と言っても、各日で何コマ活動したかというところで疲労度が変わってくる感じになります。

なので、3連休だと9コマもあるので、このうち半分も活動したら疲れちゃうのがオッサンですが、下手したら9コマ全部という殺人級スケジュールもたまにあるのがマジで辛い。

辛いのは私がオッサンだからであり、もっとエネルギッシュな若手のコーチも他チームには沢山いらっしゃいますが、若い人は若い人で自分のやりたいことに時間を割きたいという気持ちもあるのが悩ましいところでしょう。

オッサンになるとあんまりそういう「他のこと」が無くなってくるので、気持ちの上ではあまりストレスがないかも知れません。

 

とはいえ、体力はやはり衰えている。

今週のお題は「体力」ということで、なんとまぁザックリしたお題でございます。

返す返すも繰り返し繰り返しオッサンオッサンと言ってますが、オッサンの体力が如何程のものかというのは、これは簡単に測れるものではありません。

人それぞれに仕事も違えばその時間も違い、通勤手段も違います。

私のようにスポーツに関わることをしていたら何となく体力がありそうな気がしますが、コーチとして関わっているよりも、プレイヤーとしてシニアバスケなどに取り組んでいる人のほうが断然体力はあるでしょう。

単純にスタミナとか、読んで字のごとく体の力的なものは衰えて行くものと私は思っていますが、「まだまだ動けるよ、鍛えられるよ」と思っている人も沢山いるでしょうし、比べられないことの話はやめておきましょう。

なので、体力について語ることはしません。

 

⋯などと言ったら面白くないので、体力から連想されることでお茶を濁していきたいと思います。

 

オッサンになって衰えるのは、体よりも精神のほうに比重があると私は思っていて、それはいわゆる「欲望」というものが薄くなってしまってるんじゃないかということなんですけども。

例えばバスケをプレーすることに関しても、もっと上手くなりたいとか、シュートの確率を上げたいとか、まだまだ走れるところを見せたいとか、そういう「こうなりたい」という欲求がある人は、やはり強いと思うんです。

多少体が疲れていても、「やりたい」という気持ちを奮い立たせれば、動くことが出来ると思うのです。

これは老いていても若くても、追い込まれた際には同じことが言えると思います。

単純に全てがそれだけでどうにかなるわけではないですし、結果を求めれば気持ちだけでは何ともならないことのほうが多いと思います。

ですが、単純に動き始めること、やろうとすること、という部分ではほぼ気持ちの持ちようで変わると思います。

気持ち=欲望に忠実であるかどうかという部分は、その人の体力のある無しを印象付ける大きな要素であると思います。

 

「もう無理だ」「もういいよ」「やっても仕方ない」というような考えが、オッサンになると増えてきます。

実際に、例えばバスケがちょっと上手くなったところで家賃が払えるわけではないですし、奥さんが喜ぶこともないでしょう。

ギターやベースが少し上手に弾けるようになったところで、抱えている問題が解決するわけではないのです。

無駄といえば無駄なのですが、その無駄なことで機嫌良く生きられるとしたら、それはあながち無駄でもないのではと私は考えます。

機嫌良く生きるということは、とても大切なことです。

機嫌の良いオッサンと、機嫌の悪いオッサン。

どちらと関わりたいかというと、間違いなく機嫌の良いオッサンではないでしょうか。

私は自分の機嫌を良く保つためにする行動を、無駄であるとは思いません。

少なからず人と接する必要がある以上は、自分の機嫌くらいいい状態で保つ努力をすべきだと、私は思っています。

ありのままの自分で愛されるわけがないのです、オッサンだもの。

オンリーワンで許される権利は「存在してもいいのだ」平たく言えば「生きてて良いのだ」ということだけだと私は思っているので、許されるだけじゃなくてちょっとは人の役に立とうと思うなら、オンリーワンなだけでは足りない。

ナンバーワンはちょっとキツイが、嫌じゃない人ではありたい。

人と関わるなら、それくらいは気を付けておきたいと思うのです。

 

話が大きく逸れましたが、オッサンに至っては体力とは欲望を保つ精神力であり、それは少し自分の役に立つものだと結論づけます。

「これを食べると体力が回復します」みたいな動画がオススメされる年頃になりましたが、好きなものを食べて好きなことをするのが、結局は体力があるように見られることに繋がるのかなと思いますし、自分としてもそれが出来ていれば「体力が欲しいなー」などとは思わないのではないでしょうか。

 

習うより慣れたい

どうも、バッカスのオッサンです。

私にとってのブログは修行です。

いきなり何を言い出すのかとお思いの方もいるかも知れませんが、いきなり何かを言い出すのがオッサンです。

いや、そうでもないかも知れません。

 

例えば、特別面白いことも何も思い付いていない、そして、特別面白いことが身近で起こったわけでもない、特別に物申したい案件があったわけでもない、要は書くことが全く無いような日ってあるわけじゃないですか。

いわゆる記録的に、今日は何を食べたよとか、今日はこんなトレーニングをしたよとか、そういった感じのブログにすれば毎日何かは書くことがあったのにと若干の後悔をしてはいるのですが、私にはそういうマメさもないので、行き当たりばったりの今のスタイルが限界です。

この形しか私には出来ないだろうと思います。

 

そんな感じで書いているがゆえ、適当に書き出しては見たけど、どうにもこうにも今日は筆が乗らないといいうか、正確には指が乗らないというか、音楽的な表現で言うならスイングしてこないというか、そんな日があります。

ブログの運営上、そんな日は無理して記事を書かずに、一日飛ばしたほうが良いのでは⋯と思うんですよね。

無理して書いたしょーもない記事を、初めて訪問して読んでくれる方もいるわけです。

そんな方からしたら、私のブログはしょーもないことを書いているブログと認識されてしまうわけで、そうなると頑張って無理やり更新したことがマイナスでしか無いということになります。

だから、本来ならば厳選に厳選を重ねた面白い記事だけをブログに投稿するほうが、このブログの価値があがるというか、読む人からすれば「わーこのブログは面白い記事ばかりで読者登録まっしぐら!」となるわけです。

だから、私のやっていることは、ブログを人に読まれる物にするという意味では、まるで無駄な遠回りということになります。

 

ただ、ここで冒頭に書いた「ブログは修行です」なんですよ。

ここは私が文章を構成したり、考えると同時に打ち込んだり、そういった事をするためのトレーニングの場でもあるわけです。

面白いことが書けそうにないからと言って、休むことは許されません。

⋯時間がないので休むことはよくありますが。

何も書くことがないところから、言葉をひねり出すのも修行の一部。

思い付いた端からタイピングがどの程度頭の速度に食らいついていけるのか、その能力を伸ばしていくのも修行です。

その2つの能力を伸ばしに伸ばして、この世の中に無駄な文章を高速で量産することが、私の使命なのです。

いや、違います。

そんなことは目指してません!

面白い文章をたくさん書きたいなと思っています。

思っていますが、思っているだけでは書けるようにはならないじゃないですか。

だから、ここでは体育会的な努力の方法でもって、頭と指を鍛えようとしているわけです。

 

ま、その方法が正しい努力なのかどうかはわかりません。

これを続けたところで一体私にどのような能力が身に付くのかというのは、続けてみないとわからないことかと思います。

わからないけれど、自分の能力に何らかの向上を感じられる日が来たら嬉しいなと思っています。

さすがにその闇雲な希望にすがる気持ちだけではこんなことは続けられませんが、幸いにもこの作業が私にとって楽しいものなので、しばらくは成果がなくても続けられるかなと感じています。

1年か2年か、まぁ「石の上にも3年」という言葉もあるくらいですから、この無愛想なゴツゴツ尖った石の上に、3年くらいは居座ってやろうかなと思っています。

今のペースを出来るだけ維持して、3年⋯うーむ。

いやー気が滅入りますね。

3年も無駄な文章を打ち続けるなんて、一体全体どんな苦行だよと思いますけども。

意味とか価値とか考えず、楽しいまんまで打ち続けたいですね。

 

文句を言って自戒と反省で前を向く毎日である

どうも、バッカスのオッサンです。

私は小中学生にバスケの指導をしているオッサンなのですが、最近の子供たちの特徴について気になるところがあります。

私が指導しているチームはいわゆる街クラブに分類されるクラブチームで、U-15界隈では中学校の部活、クラブチーム、そしてBユースと3種類に分類されるのですが、そのうちのひとつです。

中学校の部活は説明不要かと思いますが、クラブチームは街クラブとも呼ばれ、指導者なり保護者なりが立ち上げて運営している特に地域に縛られない団体です。

そしてBユースというのは、Bリーグのプロチームの下部組織となります。

 

クラブチームについて「特に地域に縛られない」と紹介しましたが、私のチームの場合は出来るだけチームの活動場所から遠くに住んでいない⋯要は無理して通う必要のない子供たちを対象にしております。

たまに少し遠目のところから通う子もいたりしますが、入部希望で来られた際には「もう少し近いところにも別のチームがありますよ」と紹介するようにしています。

通うのに無理のない範囲で活動してほしいという気持ちからそうしていますが、なかなか都合のいいチームがない地域に住んでいる人もいるので、厳格な取り決めはありません。

 

私達の地域では、中学校の部活があまり本格的にバスケットボールをやるために機能しておらず、市の中に数チーム、他の地域と渡り合える中学校があるくらいで、小学生の頃から本格的にミニバスに取り組んできた子供たちには少し物足りない場所であることが多いようです。

そのため、私のチームではそもそも部活動では満足できない子たちを対象にしていることを謳っており、そのぶん難しいことにも挑戦していきますよ⋯という約束のもと入部してもらうようにしています。

そもそもの設定として、楽しくやりたいだけなら部活動、真剣にやりたいならクラブチームという、我々としての棲み分けがあり、それを口酸っぱく入部前に説明して、それに納得した人だけが入部するという流れになっております。

 

大切なことなのでちゃんと書いておきますが、これは私達が活動している地域の特徴です。

他にも同じような特徴を持つ地域もあれば、全く違って部活動が非常にしっかりと機能している地域もあることをお知り置きください。

人口の多い少ないや、都会であるか田舎であるかなど、またその地域の学力の問題まで、部活動には様々な要素が絡んでくるものであり、その活動の難しさは外部から見ている立場の私もある程度は理解しているつもりです。

決して部活動そのものや、そこに関わる先生方を貶めるつもりで書いているものではないとご理解いただけたら幸いです。

 

楽しむだけではなく、技術の向上や人間的な成長を求めて集まっているはずの子供たちですが、正直に言って「よし、もう一度集まって最初から説明しましょうか」と仕切り直したくなるくらい、向上心が低い子供が増えていることを感じています。

何か課題が見つかった時、それを乗り越えていくことが非常に大切であるというか、私達がやっていることは端的に言うと「それだけ」なんです。

上手くいかないこと、改善しなければいけないこと、変えなければいけないこと、そういったものにぶつかっては、それを乗り越えていける練習や考え方、鍛え方、努力の仕方をみつけて取り組んでいく。

私がチームでしなければいけないことは、それを子供たちと共有して、人数分の手心を加えながら一緒に向かい合っていくという、それだけなんです。

ですが、いつまで経っても同じ壁にぶつかったまま、何も変えずにまたぶつかって、しかもそれを大して気にする様子もない子供たちが増えてきています。

私は非常に危機感を感じています。

 

自分で言うのもなんですが、私は簡単に人のせいにしないように気を付けている人間ではあると思っているので、自分の指導が行き届かないことについて、簡単に子供のせいにはしないように気を付けています。

私の言い方一つ、また見方一つの工夫。

さらに言えば個人個人の性格なんかも考えて、どう言えば伝わるのか、どう接すれば伝わるのかを考えることに関しては、上手くはないにしても努力をしてきたほうだと自負しております。

そうやって10年以上同じ作業を繰り返してきたからこそ思うのかも知れませんが、向上心の無い、もしくは向上心とは何かを知らない、またはその示し方を知らない子供は増加の傾向にあると思います。

 

技術も身に付かず、戦術も理解せず、もっと言えばバスケという競技を理解しようともせず、ただ毎日おとずれる練習の機会には参加し、毎日同じ注意を受け続ける。

そして、その毎日にまるで危機感も問題意識ももたずに過ごしている。

そういう子が増えていることに、私は危機感をもっています。

危機感を持ちつつ、不思議な気持ちでもいます。

この子は一体何が楽しくて毎日こんな事をしているんだろうと。

自分自身がプレイヤーだった頃、シュートの確率を上げるためにひたすら打ち込んだなとか、洗面所の鏡の前でシュートフォームのチェックをしたり、寝転んで天井めがけてスナップの練習をしたり、いろんなことを考えて取り組んで、成果が出るのが楽しみだった記憶があります。

何も成果が出ず、同じ注意を受け続けるような生活には、私なら⋯いや、向上心を持って真剣に取り組んでいる人間なら耐えられないよなと思うわけです。

気持ちを入れて、何かを真剣にしている人間には、そんな状況は耐えられないはず。

なので私の見解では、気持ちも真剣さも向上心も、何も持たずにバスケをしている人種がいるのだということになっています。

 

もちろん、そういった対象⋯自分が真剣に向き合いたいと思うあらゆる物事⋯を見つけたり巡り合ったりすることが人生の楽しみの一つでもあるわけですが、私のチームでは既にそれをバスケと決めた子供たちが、とっくの昔に真剣に取り組んでいるわけです。

ここに温度差が生まれるのは必然であり、また指導者の視線は熱い方に向いていくものです。

そして真剣に取り組んでいる子たちが、真剣だからといってめちゃくちゃ上手いわけではなく、指導者はその子達を上手にするために一番努力しなくてはいけません。

私は特に、気持ちを向けられたことに気持ちで応えたいタイプの人間ですので、寒い方からはどんどん離れていってしまいます。

 

ここまで書いて思いますけど、そもそも気持ちが入っていない相手に何かを教えようとすること自体が難しいわけで、そこはやはり教える側がどうこうするものでは無い気がしますね。

上手くいかない子たちにも寄り添って考えるべきだと思っていますが、そもそも相手がバスケに寄り添おうとしていない場合は、何もしようがありません。

表現としては冷たくなるかも知れませんが、向上心のない相手には向き合う必要がないというか。

そもそも、こちらを向いてないものとは向き合いようがないというか。

どこか違う方向を向いている相手に対して、こちらの努力だけで目を合わせようとしてもどうにもならないので、これは私の悪手というか、しなくていい苦労をして文句を言ってるだけですらある。

これはなんか、自分的に覚えておく必要のあることを書いた気がする。