バスケ界隈の隅っこで

妄想妄言ファンタジー

寿司打で磨いたこの腕を、活かせるだけの頭があればなと遠くを見た日

どうも、バッカスのオッサンです。

そういえば日曜日?ニュースで首相が辞意を発表したというのを見ましたが、現在水曜日、リアルで出会う誰からもそのことは話題にも上がっていません。

その程度のことということで、今日も張り切ってキーボードをカタカタしてまいりましょう。

 

こうして思い付いたことを文章にしてブログに上げるという行為を約5ヶ月やってるわけですが、相変わらず特に誰に読まれてるでもなく、たまに何かのキッカケで読んでくださる人がいらっしゃってありがとうございますという感じでやってますけども。

まぁこれに経済的な意味はないですけれども、何らかのトレーニングにはなっている気はしていて⋯というか、それすらなければ全く何をしているのかわからない状態になってしまうので、死んでもそこにはスガリたいと思っているわけです。

単純に、文章を構成することがトレーニングであり、キーボードを打つことがトレーニングです。

これはもう、意味もなく習慣として続けていけたらなぁと思っているんですよ。

誰かに読まれるわけではないですが、誰かが読む可能性は0ではないという、ちょっとした緊張感が、「人に伝わるように書かないとな」という意識を与えてくれます。

それがあるのと無いのとでは大違いで、個人のメモなら多分2ページくらい書いたところで辞めていると思います。

なぜなら基本的に普段思っていることを書いているだけなので、ここに書きたいことはすでに私の頭の中にあるということになります。

それを人様に伝えるために加工して出しているだけなので、自分で読み返すことにはあまり意味を感じていません。

 

それに、自分で読み返すと、なんだか恥ずかしい気持ちになりませんか?

なんだか、別に取り立てて新しいことを書いているわけでもなければ、目を見張るような表現があるわけでもない。

ただただオッサンが普段考えていることや、生活の中で感じたことが書かれているだけのブログです。

あまり読み返したくはないので、毎回書き終わった後の確認も、ほぼしません。

書きながら校閲するというか、短いスパンで「文章がおかしくないかな?」「漢字が間違ってないかな?」「ミスタイプはないかな?」ということくらいは確認しますが、全体を読み返すことはまずないですね。

オッサンに残された人生の時間は短いので、できるだけ余計なことはしないように生きていきたいです。

 

キーボードを打つことは紛れもなく指先と脳神経のトレーニングとなり、そしてこれは体の異変のセンサーともなります。

脳だとか何かに異変が起こると、指先の動きに支障をきたすことが多いようで、これがいつも通りの動きを出来ないとなると、危険信号が灯っているよということらしいです。

ま、そのセンサー部分はさておき、やはりキーボードを軽快に打ち込めている時は気持ちがいいものですし、考えた文章が同時進行で画面に表示されるようなスピードで打てるような絶好調時はとても楽しいです。

ただ、ブログを書いていて思いますが、文章を作成するにあたって時間がかかるのは、文章を考えている作業の場合がほとんどですね。

打ち込むのに時間がかかるということはほとんどありません。

私も寿司打のおかげで日本語の文章ならキーボードを見ずにほぼブラインドで打てますが、キーボードを見ながら打ったとしてもそれほど文章作成にかかる時間は変わらないような気がしています。

このブログのように思い付いた言葉を無責任にダラダラズラズラと並べるだけのタイプの文章なら、多少は打つスピードが影響するかも知れませんが、基本的には打つ時間より考える時間が作業時間を決定する気がします。

 

なので、私が今、自分の能力として求めるものは、面白い言葉が湯水のように湧いて出るような頭になれたらいいのになということです。

思い付いた言葉をリアルタイムで打ち込むだけのタイピング技術は身に付けました。

あとは書くことが百発百中で面白ければ、ものすごい文章を作れる人になれそうです。

そうですね、エッセイとかを毎日毎日、掘り当てたばかりの温泉のようにドバドバと量産して、それで生活できるよになったらこれ以上嬉しいことはないですね。

ま、残念なことにそういう頭がないもので、私は私の城たるこのバスケ界隈の片隅を守り続けていくんですが。

いや、でもマジでタイピングは快感なんで、この城は長く続くものにしていかないとな。

 

ただ己の現在地を確認しただけの日

どうも、バッカスのオッサンです。

毎日毎日バスケのコーチっぽいことをしているわけですが、ふと、これって受動的な活動というか、自分からやりたくてやってるというよりは「やらなければいけない状況なのでやっている」に近いよなと思うところもありまして。

「近いよな」と思うということは、自分からやりたいと思う気持ちもちゃんとあるにはあるという事なんですが、どちらかというと辞めるに辞められないという部分がある活動だなと思うのです。

「やらなければいけないこと」の最たるものが仕事として、その次に時間を割いているものが能動的なものではないというのは、私の生活は少ししょーもないのかも知れない。

そういう危機感を覚え始めたのは今年の始め頃でしょうか。

 

現在は、能動的でしかない「ギターとベースの練習」というものを生活に組み込んでいるため、あまり生活に不満はありません。

嘘です、あります。

仕事なんかしたくありません。

いや、仕事をしたくないというか、もっと好きなことをやるための時間が欲しいというのが正直なところ。

私もオッサンなので、仕事をして収入を得ることも、また強制的に外に出て他人様と接点を持つことの大切さも、ちゃんと意味のあることだと人並みには理解しているつもりです。

なんだかんだ言って、無理やり人と関わらなければいけない状況を生み出してくれる「仕事」というやつは、そんなに悪いやつでもないというのが私の感じるところです。

ある程度のストレスがあるから人はモノを思い、日々いろんな感想を持ったりして、自分が人であることを確認できる気がしています。

なので、仕事の大切さを理解してはいるのですが、時間と体力が奪われるのが口惜しい⋯というのが正しい表現かも知れません。

 

最近、高血圧のせいで月に一度の医者通いを強いられる生活になり、健康についても考えることが多いのですが、例えば今すぐ死んで、何を後悔するんだろうと思いを巡らせることがあります。

結論から言うと、特には無いんです。

いや、別に生きてて辛いわけでもないので、すぐに死にたいわけではありません。

ただ、健康のためにと色んなことを我慢してまで長生きしようという発想には、今のところならないかなという話です。

それはひとえに私が健康に恵まれているからであり、今すぐどうにかしないといけないレベルの病気に罹っていないから言えることでしょう。

体調不良を抱えている状態では、こんなことは言えるかどうかわかりません。

実際、私は痛風の疑いのある人間ですが、痛風の発作で足が痛いのは嫌なので、本物のビールは我慢してプリン体0のもので我慢したりは出来ます。

そういうふうに、何か本当に困ったことがあれば人は動きますが、それが無ければわざわざ好きなものを我慢したりはしません。

このようにどこかが痛い、体が動かない、などの不調がない限りは、できる限り自分の好きなように生きたいのが人間なので、わざわざ悪いところを探しに行くようなことはしたくないんです。

 

高血圧に関しては、実の母が脳梗塞で倒れたこともあり、幸い後遺症の残らない形で生活できているとはいえ、自分もそうならないとも限らない、まして母のように家族の前で異変が起こり、迅速に病院に運ばれるような幸運に恵まれるとは限らないという懸念があり、通院を選びました。

やはり人は目の前で起こったことしか、リアルに受け止められないのかも知れないなと思います。

しかし、「それは愚かだ」と、「あらゆる懸念をすべきだ」と、そんなことを言っていたら、あらゆる病気に関する検査を受けなくてはならなくなりますし、それこそ好きなことをする時間を捨ててでも、健康のためにしなければいけないことに振り回される生活になりそうな気がします。

検査なんてその時は良くても、数年後、数カ月後にはわからない。

そんな心配ばかりしていたら、それこそ人生が楽しく無いような気もします。

 

私は、命というものはやりたいことをやるためにあると思っているので、おそらく直ちに困らない限りは好きなように食って寝て生きるのでしょう。

何処かに不調を来したら、その時はやりたいことをやれるように判断していくのでしょう。

人は正に人それぞれですので、長く生きることを目標に掲げてらっしゃる方のことも、大尊重いたします。

健康が一番大切だという人に、何も文句はありません。

私は私の人生の今の段階で、健康を多少犠牲にしてもやりたいことを優先したいと考えているだけなのです。

それは私の体がまだ健康な方だから言えることかも知れませんし、その状況をありがたく享受して、やりたいことに邁進していこうと思います。

オッサンとしては、運動能力の衰えはひしひしと感じており、可能性というものはだいぶと狭まってきているのかも知れません。

でもまだやりたくてやれることがあるので、これは幸せなことだと感じております。

 

やりがいと金銭のバランスが取れていれば最高じゃないかと思った日

お題「「やりがい」を感じる瞬間」

どうも、バッカスのオッサンです。

私、10年以上に渡ってバスケのコーチのようなことをしているオッサンなんですが、古き良き⋯いや、今となっては古き悪しきとすら思える「ボランティア」という形でチームに携わっております。

ボランティアそのものが悪いわけではないのですが、金銭も受け取らずして熱意を持って指導するコーチというのはまぁ珍しい存在になってきており、コスパだタイパだのうるさいこのご時世、これから益々こんな仕事を引き受ける人は減っていくだろうという予測から、先細りが目に見えているというのが現状です。

選手や保護者目線でいうと「コーチを繋ぎ止めておくために」、指導者目線でいうと「責任をまっとうするために」、ある程度の金銭の授受があったほうが、私は健全であると思います。

 

コーチである私からすると、常に金銭に見合った仕事をしているかどうかを監視されるわけであり、そりゃちょっとの息苦しさは感じるかも知れませんが、もともとそういった責任は感じながらやってますし、それよりも私がやってる活動に経済的な意味が生じるメリットのほうが大きいと思っています。

私も最初は自身の子供が所属するチームの保護者コーチとしてキャリアをスタートしたわけですが、今ではその子供もすっかり成人しており、本当ならばチームの指導を離れたとしても誰に文句を言われる筋合いもない立場ではあります。

やりがいを感じる部分があるので続けていますが、それもいつまで続けられるかというのは私の生活がどうなっていくかに左右されてしまいます。

ひとつは健康面の問題で、指導を続けることができなくなる場合。

もうひとつとして、金銭面の都合でそうなる場合。

 

前者の場合は、例えば事故に合うなどの突発的なものでない限りは、普段の暮らしの中で気を付けていけばある程度は長引かせることができます。

しかし後者の場合、例えば私が急に職を失ってしまう場合や、家族の都合で急に今よりも収入が必要になる場合など、こちらはいつそうなってもおかしくない問題となります。

そして、チームに代わりのコーチはいたとしても家庭に私の代わりはいませんので、そういう状況になってしまった場合は即刻私はチームを辞め、仕事にのみ集中せざるを得ないということになります。

ま、ものの程度にはよりますが、こちらのほうは今すぐそうなっても不思議はなく、即ちチームは現状綱渡りで運営していることになります。

そして、こういう状況に気づいている人、もしくはそういう危険性の上に成り立ってしまっているということを、ほとんどのチーム関係者が理解せずに日々活動は続いています。

 

世の中の殆どのチームがそうとは言いませんが、指導者が一人しかいないチームはザラにあり、また、複数の指導者がいる場合でも、メインの指導者がいなくなった場合、その指導者と同じようにチームに関われる人がいるチームというのはそんなに多くないかも知れません。

私自身が優れた指導者であるとは1ミリも思っていませんが、もしあなたのチームの指導者が優秀で気に入っていらっしゃるなら、その人をキープする方法についてチームで真剣に考えられたほうが安心安全かと思われますので、ここにご提案いたします。

 

さて、前置きというか愚痴というか、愚痴ではないけど思うところの発表会が長くなってしまいましたが、今日見つけたお題は「『やりがい』を感じる瞬間」ということでございます。

バスケのコーチのやりがいと言ったら、「選手の成長」「チームの成長」これしかないですね。

出来なかったことが出来るようになったり、勝てなかった相手に勝てるようになったり、勝てないまでも善戦できたと納得できるところまで行けたり、日々の練習を重ねることで、選手やチームが一歩でも前に進むことが一番のやりがいです。

これが簡単なようでなかなか難しく、特に一番難しい点が、毎年チームの特徴が変わってしまうという点にあります。

強豪チームなら、そのチームのスタイルに憧れて人が集まり、そのチームのスタイルに準じた選手を起用することで、ある程度は数年に渡って一貫性のあるチーム作りが可能です。

ですが私達のような零細チームにいたっては、毎年集まってくる選手の特徴が違いすぎるため、練習内容から強度、戦術やコンセプトにいたるまで、細かい調整が必要になってきます。

どこのチームさんも、それはウチでもやってるよと仰るでしょう。

ですが、毎年都道府県の上位にいるチームとそれ以外では、人の集まり方がそもそも違います。

トライアウトなどで選手を選考できるチームとそうではないチーム⋯というとよりわかりやすいかも知れません。

私のチームにも大まかなコンセプトやチームカラーはありますが、それを全うできるだろうという目論見で選手を選ぶことはしていません。

これは別に美談の類でもなんでもなく、地域の子供が無理なく通えるチームでありたいからです。

近隣の子供たちのためのチームでありたいというのが、自チームの在り方です。

 

そういった感じで、チームは選手に選ばれる立場ですが、こちらからは選手を選ばずにやっているため、毎年毎年一つの形にするのが難しい所ではあります。

ですが、そこがまた「今年はどうやって仕上げようか」とか「去年とは全然違うチームになったな」とか、私達も楽しんでやっています。

大会での成績などを求められると厳しいやり方ではありますが、選手の成長に関しては常に求める姿勢をもってやっていると自負しております。

 

「チーム」という括りで話を進めてきましたが、「個人」はもっと千差万別で多種多様で自由奔放です。

同じ事を言っても全く伝わらない子もいれば、すぐに飲み込む子もいます。

伝え方を工夫してみて理解できる子もいれば、そもそもちゃんと話を聞いていない子もいます。

話を聞いてれば出来るという子もいれば、話を聞いたうえで出来ない子もいます。

また向上心の持ちようもそれぞれに様々で、目標の設定が全国レベルの子もいれば、スポーツをしたいので⋯というレベルの子もいます。

まぁ大変ですが、人間が集まればそもそもそんなもんだよなぁと思うところもあり、だからこそ面白い部分もあるよなと思いながら毎日やってます。

スポーツですから、勝ち負けがありますから、ある程度は残酷な判断をしないといけない部分もありますが、色んな人と関わるということが、私にも子供たちにも大切なことのように思っています。

 

話が逸れてしまいましたが、やりがいは成長です。

一人の少年が変わっていく姿を見られるのは、贅沢な気分にもなります。

最初の方に書いた「責任」というものもついて回りますが、長く続けられるのはこのやりがいによるところがほとんどですね。

どこのチームのコーチさんも、長く続けられる体制が整うことを願ってやみません。

 

練習でやったことしか本番では出ないのだが、永遠に本番が来ないことを練習してたとしてもそれ自体が楽しければ無問題でファイナルアンサー

今週のお題「これを練習しています」

どうも、バッカスのオッサンです。

今週のお題が更新されていたので、今日も書いてみたいと思います。

ついこの間、今週のお題に取り組んだばかりかと思うのですが、何曜日に更新されるものなんでしょうかね。

ま、そんな事を知ったところで特に何も変わることはないですが。

 

「これを練習しています」というのが今週のお題です。

私、「バスケ界隈の隅っこで」などというタイトルでブログを書いている者なんですが、自分自身のバスケの練習は一切しておりません。

ほぼ毎日、体育館には行っているのですが、小中学生に練習をさせるばかりで自分の練習は一切していません。

そんな私にも、月に何度かオッサンのためのバスケ会みたいなものがあり、プレーする機会はあります。

チームが忙しいとなかなか顔を出すことができないのですが、行ける時はできるだけ出席し、自分の体を動かすことで健康と指導に対するアイデアを得ようと試みております。

ただ、その機会のために自分の技術を向上させようという気はサラサラなくて、自分のための練習は一切していないのです。

あまりにも練習しなさすぎて、前回参加したときなどはハッキリとクッキリと衰えを感じてしまい、少しは練習をしたほうが良いのかなという気持ちになりました。

ただ、前述したように、体育館にはほぼ毎日行っており、ハッキリ言ってバスケに関しては食傷気味というか、人生におけるバスケ濃度が濃すぎるというか、どちらかというと私はスポーツよりもロックを信じて生きてきた口ですので、大いに不満がある生活を強いられている気分でいるため、これ以上バスケに私の人生の何かを割くのは違っているはずと信じて止まない訳でございます。

しかしながら、自分がプレーする際にあまりにもイメージと実際の体の挙動がかけ離れていると、余計な怪我のもとにもなってしまいますし、何より自尊心が傷つきまくってもうバスケットボールなんて見たくもないヤイ状態に陥ってしまいそうな気もしています。

そのため、最近は体育館に行くと、フリースローを10本くらいは決めて帰ろうかという気持ちにはなっており、「練習」というよりは「義務」として何本かシュートを打つことにはしています。

あと、あまり関係ない話ですが、オッサンにとってバスケを一生懸命することは体に悪いと私は思っています。

バスケはしんどすぎます。

軽い運動をするなら、ボウリングが楽しそうな気がする。

 

「こいつまたお題を『していない』方の話で結ぼうとしているな」「そのやり方は見飽きたぜ」とお思いの方もいらっしゃるかも知れませんが、まぁそこまで思うほど一生懸命読まれていると私が勘違いしているのも恥ずかしいのでその点については言及しないでおきましょうか。

 

さて、今回はちゃんとお題に沿って、練習している話をしたいと思います。

私は前述したように、バスケよりもロックを信じて生きてきた人間ですので、自分の人生において大切なのは、入らないフリースローの練習よりもギターの練習です。

ギターの練習と言いましても、私の場合は楽器そのものの上達よりも作曲することのほうが好きであり、何なら歌うことが一番好きなので、ギターは伴奏程度の技術しか持ち合わせておらず、またそこに対する向上心も曖昧な部分があります。

つまりは、ギターに関しては必要に迫られない限り、いま出来ることの範囲で納得しているという状態。

じゃあ結局、練習はしていないんじゃないかとお考えのあなたの仰るとおりなんですが、ギターの練習はしていなくても、ベースの練習はしているというのが実際の私の暮らしなのでございます。

 

なぜベースなのか、ということをご説明したいのですが、そもそもは作曲というか、パソコンを使って一人で曲を仕上げてみたいなぁという思いつきからスタートしております。

実際にDAWソフトを立ち上げ、録音できる環境を整えて、もともとやってたギターは録音できることが確認できました。

ベースとドラムは打ち込みか⋯と考えていたのですが、ドラムは致し方無しとして、ベースは頑張れば弾けるんじゃないか?と思ってしまったのが運の尽き。

はるか昔、友人たちとバンドをやっていた時代にたまたま購入したエレキベースが手元にあったことで、ベースの練習を始めることになってしまいました。

 

いざ、ベースの練習を始めてみると、これがやはり上手くは弾けないのですが、オッサンになってから新しいことを始めるということに何だか高揚してしまい、ゆっくりなペースではあるものの趣味として言ってもいいかなくらいの練習はしております。

ついでにギターも弾いてはいるのですが、ベースのほうが楽しいです。

よく言われることで、ベースの音は地味だから面白くない⋯という意見もあるのですが、そこは私も長い間音楽を聞いてきた人間ですから、ベースの地味な良さがわかるわけですよ。

そして、地味なだけじゃない派手なベースも知っているわけです。

派手なベースというのは技術的にも難しいものが多くて、知っているだけで弾けるわけではないんですけどね。

ベースの良いところとしては、ギターよりも弦が太いことによって、よりフィジカルな魅力があるというか。

太い弦を振動させるということは、それだけ大きい振動を得られるということで、それを手や体で感じることがとても気持ちいいです。

しかもそれが音楽的なフレーズとして鳴らされることで、自分の体も音楽と一体になっているような気分になり、それが大変心地よい。

そして、物理的にギターよりも大きいので、ギターの繊細さや緻密さのイメージよりも、おおらかな気持ちで一音一音に向き合える気がして好きです。

一流のベースプレイが繊細さと緻密さをもっているのは当然として、私のような凡庸な素人が弾けるレベルのフレーズならば、そういったおおらかさを存分に味わう事ができます。

 

とはいえ、いわゆるベースの初級にありがちなルート弾きでベンベンベンベンやってても飽きては来るので、ちょっとずつメロディックなものに挑戦したり、リズムの小難しいものに挑戦したりと、ほぼ毎日楽しんでおります。

ベースと言えばリズム楽器でもありますので、音の長さや強さにこだわることで、曲のノリを作っていくような、そういうベースの仕事っぷりにも魅力を感じます。

 

私の生活で、一番「練習」という言葉がピタリとハマるのは、今のところエレキベースとなります。

初心者の私がベースを練習していると、指がヒリヒリと痛くなるのです。

押弦する左手ですらギターである程度は慣れているはずが長時間ベースを練習することでヒリつくのですが、弦を弾く右手の指先は比較にならないほど酷使されるようで、たまに水膨れになったりします。

凄腕ベーシストのYoutubeなんかを見ていると「それでも練習するのだ」と力強いお言葉をいただけるわけですが、私の場合はすぐにピック弾きに逃げたり、ギターの練習に切り替えたりしちゃいますね。

プロのプレイヤーを目指しているならともかく、私の場合は気持ちよさが最優先な音楽との付き合い方をしているので、不快感のほうが強くなるなら別のことをしよう⋯となります。

ある程度、指先の痛みも気持ちの良いものではあるんですが。

心地よい疲労感⋯みたいなもので、弾いた分だけちゃんと痛くなるということに、達成感みたいなものを感じることもできます。

 

楽器を趣味にすることは、私にとってもそう遠くない老後を見据えたうえでも結構オススメかなと思っています。

指先を使うことは脳にもいいらしいですし、体になにか不調があった時は指先の動きに影響が出やすいらしいので、それに対するセンサーとしても役立ちそうです。

そういう付き合い方も、人によってはありじゃないのかなと思いますね。

とんがっていた昔なら、「覚悟のない奴がギター弾いてんじゃねえ」とか思ってたかも知れませんが、そう思ってた自分にも大した覚悟なんかなかったですし、そもそも覚悟なんか人に評価されるもんでもないしで。

楽しそうに楽器を弾いていたら、それだけで「なんかいいなぁ」となってしまいますね、今に至っては。

ギターも良いですが、ベースもなかなか良いですので、弾いてみてはいかがでしょうか。

 

テーマから逸れていくこともまたテーマがあればこそのことであり、我々は釈迦とテーマの手のひらの上で踊っているに過ぎないのである

今週のお題「この夏よく食べたもの」

どうも、バッカスのオッサンです。

気付けばテレビっ子世代である私ですらも、最近は地上波を見ることが殆どなくなっています。

観たい番組はもっぱらTverで5〜6番組を見るくらいなので、大抵は週末にまとめて見ることが多くなっています。

地上波の番組はコンプラだなんだと規制がうるさくなって、結局は毒にも薬にもならないような番組だらけになっている⋯というのがもっぱらの評判ですが、私も遠からずそういった感想を持っています。

音楽番組なり、教養系の番組なりといったものは、別に毒がなくても観られるのですが、ことお笑いとなると毒のないものの味気なさは語るに及ばず。

毒は毒だからまぁ体によろしくはないのでしょうが、どんなに体に良い物でも摂り過ぎれば毒になるということもありますし、薬もある意味毒ですし、タバコや酒と同じように、毒とわかって摂る分には用法用量を守ってこっちの都合で好きなだけ受け取らせていただきたいというのが私の希望です。

そんな人達はYoutubeなり他の動画配信サービスに面白さを求めて旅立つのも自然な流れ。

まだまだ地上波の業界に気骨のある作り手さんはいらっしゃると思いますし、だからこそまだまだTverで観たい番組もあるので、テレビが終わったなどとは思いませんが、私には必要のないものになりつつあるというのが現在地でございます。

 

今週のお題が「この夏よく食べたもの」ということで思い返してみたものの、これといって食ったなぁと振り返れるものが思い付かない。

夏といえば、そうめん、冷やし中華、スイカ、アイス、かき氷、あとはBBQでの焼肉なんかが定番でしょうか?

どれもまぁ食ったは食ったが特筆すべきほど頻繁に食った覚えはないという感じ。

ことアイスやかき氷に至っては、加齢とともに食いたい欲すら減ってきていて、毎年データを残していたとしたら美しいまでの右肩下がり線を描いたグラフが書けそうな気がします。

そんな今年の夏に間違いなく一番口にした物といえば、ビールの一択でしょう。

歳をとってもこれだけは変わらない。

実は変わってなくもない。

 

私、痛風っぽい症状を経験してから、本物のビールは控えておりまして。

なぜ「痛風っぽい」と表現するかというと、医者にかかって「これは痛風です」と診断されたわけではないからです。

症状をネットで検索して、思い当たるフシがあるのが痛風だったということで、あくまで自己診断です。

ですが、痛風に良くないものとして一番に名前が上がるプリン体とやらを意識的に避けてみたところ、ここ3年間は痛風の発作が一度も出ておらず、これはほぼ間違いなく痛風なのだろうといった感じで受け取っております。

 

痛風かも」と自分で思うまでは、3年間に渡って毎年一度は発作が出ていました。

痛風の発作は人によって出るところが違うらしいのですが、私の場合は足の甲。

バスケの指導をしていることもあって、最初の2回は疲労骨折の類ではないかと疑っていました。

しかし、疲労骨折がある日突然痛みだすことはあれど、急に治ることはありません。

2回は目を逸らしてきましたが、3回目は現実を直視することにしました。

痛風と目と目が合った瞬間です。

かつて牧瀬里穂は「♪目と目があったらミラクル〜」と歌いましたが、現実はそんな素敵なものではありませんでした。

 

かくして私は3年連続3度目の痛風発作を受け、痛風とともに歩む人生を踏み出したわけでございます。

1年目は、全くビールを飲みませんでした。

私の調べたところによると、酒は酒でもウイスキーや焼酎などの蒸留酒ならば、プリン体を心配する必要はないということで、最初の一年はとにかくハイボールを飲みました。

炭酸とアルコールが組み合わさっていれば、それだけで人は幸せになれると信じていたからです。

ただ、2年目に飽きました。

どうしてもビールが飲みたい私は、妥協に妥協を重ね、あまり美味しくない「プリン体0」のビールに手を出したのでした。

本物のビールと比べるとプリン体0のものは全然美味しくはないですが、ビール的なものを飲みたい人間にはハイボールより焼酎のソーダ割りよりも求めているものに近く、結局はこれを愛飲する運びとなったのでした。

 

で、その後、高血圧により通院生活を余儀なくされたときに、かかりつけとなったお医者さんが言うには、「アルコールが入ってたら何でも一緒ですよ」とのことなんですが、それまで3年連続つづいていた発作がプリン体を断つことにより、3年間発作を抑えることに成功している私からすれば「それってあなたの感想ですよね?」というに過ぎないご意見でございました。

ま、私の言ってることも私個人の感想に過ぎませんが。

ただ、私の体においてはプリン体を断てば痛風の発作は抑えられるというのが、紛れもない定説として完成しています。

くれぐれも申し上げたいのは、私は正しいことなど言えませんし言いません。

そして私が信じていないことも言いません。

 

あと、偉そうに言ってますが、飲み会なんかでお店に行ったときには普通に本物のビールを飲みます。

そういう場所で美味しいビールをいただくために、日頃の一人呑みはプリン体0で我慢しているわけです。

ま、プリン体0でも飲めることは幸せなことですし、ちょっとの我慢があるおかげで飲み会のビールも美味いしで、私にとってはウハウハのプリン体0生活なのでございます。

 

そんなわけで、「この夏よく食べたもの」に関して書かせていただきました。

全然テーマに沿ってはいない気がしますが、そういうのがほら、醍醐味でしょ、こういうものの。

今日もキーボードをカタカタするためのテーマを与えていただき、ありがとうございました。

全くもって幸せなことでございます。

 

コードワークについて調べていたはずが知らぬ間に速弾きの動画を見ていたことが誰しもあるはずだと決めつけていく

どうも、バッカスのオッサンです。

毎日ブログを⋯あ、すいません調子に乗って「毎日」などと。

気が向いた平日にブログを書いているのですが、ブログを書き出す前の自分ルールとして、「寿司打の1万円コースをクリアしないことにはブログを書いてはいけない」というものを課しています。

誰もチェックしていない自分ルールなので、破ったとしても誰に責められるわけでもないんですが、ここまでずっと守り続けているので、いわゆるルーティンとして認可されてもいいでしょう。誰に。

で、やり続けていると欲も出てくるので、現在はスコア1万2千円を越えないといけなくなっています。

なっていますというか、自分で勝手にしています。

これがその日の調子によっては非常に難しく、私の感覚的にはこの1万2千円あたりが一般人を弾く壁のような気がしています。

また個人的な限界を「一般」などと範囲を拡げて大げさに発表しておりますが、まぁここまで読んだならお付き合いください。

1万円までは、よっぽど変なところにハマらない限りは、普通にやればクリアできます。

ただ、1万2千円は、ちゃんと全ての文字列を打ち込まないと達成できないことはもちろんですが、速さも少し求められます。

一つの文章に与えられた時間を、ひとつひとつ丸々使い切ってしまっていると、最終的には1万2千円に届かないはずです、多分。

短くて早く済ませられる文章に関しては、出来るだけ早く済ませなくてはいけない。

そして全文章クリア。

それが完ぺきにできたら1万4千円も不可能ではないですが、残念ながら私のレベルではミスタイプもそこそこあるので、過去に1万4千円を超えたことは一度しかないです。

 

で、1万2千円以上をコンスタントに記録しようとした場合、現在の私のタイピング能力よりももう一段上の力が必要と思います。

現状のスピードを保ったままミスタイプを減らすか、スピードをもっと上げるかです。

が、タイピングというもののそもそもを考えると、ミスを減らすことのほうが断然必要な能力ですので、スピードより正確性を求めていくのがちゃんとした道のりであると考えられます。

指の回転を速くする方向をバカみたいに求めるのも面白いとは思うのですが、身体能力というものが軒並み衰えていく年頃に差し掛かりまくっている私のようなものは、どんな場面でもいぶし銀の活躍が求められるわけで。求められているわけで?

爆発力よりも、安定感。

オッサンの生き方とはそういうものだと思うのです。

 

ま、そう考えることが正しいかどうかはわかりませんし、元よりこのブログには正しいことは書きませんという約束が強くあるものですから、読んでくださる方々にも「何かしら正しいことが書いてあるかも」などという浮ついた気持ちでいられると困ってしまいます。

気を引き締めて、疑い、舐めてかかってください。

そんな私からこんな事を言うのはアレなんですが、前述のタイピングの話にしても、正しい努力を見極めることって大事ですよねって思うんです。

バスケに限らずスポーツ界隈でよく言われることでもありますが、練習内容が練習のための練習になっているとか、要は試合につながっていない練習は、正しい努力ではなく遠回りどころか別の方向に向かってすらいるような練習も中にはありますよということです。

そうならないようにコーチは練習の内容を精査しながらやるもんですが、考えに考えた練習を行ったとしても思ったような成果が得られないこともあり、その原因を探ると意識付けが悪かったり、回数の設定が悪かったり、時間の設定が悪かったりと、良い強度の練習をするためにはその練習の内容だけでなく、他にも色んな要素があるものなので、練習メニューを考える際には常に分析が欠かせません。

そこまで微妙な調整をしながら考えたメニューを、選手が何も意識せずに行ったときにはマジで家に帰りたくなる気持ちをグッと堪えること幾千回⋯みたいな精神修行の様相を呈しているのがコーチという仕事なのかも知れません。

 

人間の体力と精神力、そして体と精神の耐久力というものには限りがあるものだと思いますので、それらを無駄に消費するべきではないというのが私の考えですが、そのためにはやはり「正しい努力」というものを意識せざるを得ません。

全く無駄がない⋯というとちょっと無理かも⋯と弱気になってしまいますが、出来るだけ無駄のないメニューを考え、選手に課すことが大切だと日々思っております。

正しい努力には、達成したい目標というものが必ず必要で、まずそれがないことには努力の設定は不可能です。

何を身に付けたいかという具体的な目標なしに、無駄のない練習メニューの設定は不可能です。

なので、正しい努力への第一歩は、何を出来るようになりたいかという目標設定から始まります。

 

バスケにしろ、ギターにしろ、努力の方法については情報がたくさん溢れています。

ほとんどの情報はYoutubeにあります。

ま、そういう情報は玉石混交なもので、何を真に受けて、何を捨てて、みたいな選択が大切なことが多いのですけども。

その見極めすらも、自分の達成したい目標がハッキリしていれば、容易になってくるのではと思います。

情報自体はすぐにでも調べられるので、「努力の方法がわからない」というのは言い訳でしかないという非常に厳しい世の中でもあるのです。

ただ、そういう情報が溢れすぎているがゆえに、自分の目標とつながっていないものや、自分のレベルに合っていないもの、似てるけど実はあまり関係ないものなど、似て非なるものを引き当ててしまうこともままあります。

ですので、何かを身に付けようとする我々が常に意識して置かなければいけないのは、自分の目標とその努力の方法が本当に繋がっているのかどうかというところです。

これが出来ていれば、「正しい努力」にかぎりなく近づくことが出来るような気がしています。

Youtubeなんかを見ていると、アレもしなきゃコレもしなきゃ⋯という気持ちになってしまうこともあるのですが、そういう時は自分の目標をしっかりと確認してください。

今は必要ない、というようなことが、意外と多く見つかるかも知れません。

 

それぞれに良いところがあるという話

どうも、バッカスのオッサンです。

日々オッサンとして活動していく中で、やはり夏の暑さは歳を重ねるごとにひときわ厳しく、狭い路地の小さな信号を何も気に留める様子もなく赤信号で通過していくお爺さんの自転車なんかを見ていると、身の危険から苛立ちはするのですが、ただでさえ弱った認知の中、この暑さの炎天下ともなれば、それくらいギリギリで道を走っているお年寄りもいるのだと考えておいたほうが、私の人生にとっては良いような気もする今日このごろです。

そもそも車が通る道の全ては危険なものに違いないのですが、危険なお年寄りの自転車に対して寛容さのない己の精神もまた、同じように追い詰められているかのようで恥じるばかりです。

もっと余裕を持って生きるべきだと思います。

ただ、己の身は己で守らねばならんのも世の常というか、例えば70年も生きた人生の終わりがボケーっと自転車に乗ってたら信号無視をしてしまい車に轢かれて死にました⋯では少し寂しい気もするので気を付けていただきたくもある。

私はそんな死に方はしたくない。

 

以前から書いておりますように、私はロックに少なからず影響を受けて生きてきたものですから、常識とか言う奴は信じちゃいけねぇぜ⋯と今も薄っすら思いながら日々を過ごしておりまして。

オッサンになるとこれがまためんどくさくもあるのですが、例えばバスケの練習試合などで指導者が顔を合わせた時、ある程度は調子を合わせて世間話を出来る方が場が円滑に進むこともあり、そういった時に無理やり「普通の人」というものを意識して振る舞わねばならないときがあります。

いやいや、そんなことは気にしないでありのままの自分で良いじゃないかと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、ありのままの私というのは他人と話すことなどないと思っているような閉鎖的な人間ですので、そんな奴と一日練習試合で時を共にするというのはお相手側からすれば苦痛でしかなく、そんな思いをさせてしまったならばチームの活動に支障をきたすため、最低でも「イヤじゃない人」くらいには思われる努力が必要なのです。

そういう場面で初手から「俺は他の奴らとは一味違うぜ」的な雰囲気を出してくる人もたまにいますが、そういう相手ならばこちらもあまり遠慮せずにやれるというか、大抵の場合は「あ、面倒くさい奴だな」と思ってあまり関わらないようにするのですが、たまーにそういうタイプで嫌いじゃない感じの人がいたりするので、人間って面白いよなと思います。

その人の面白いところを見つけられたら、タイプが違ってもわりと好きになってしまったりすることもあるので、とりあえず初対面で反発しないようには気を付けています。

 

ロックの解釈は十人十色でかまわないと思うのですが、そんなふうに振る舞える私をロックじゃないと⋯まぁ昔の私なら思っていたんでしょうけども、私自身がロックではないとしても私はロックが好きなんで仕方ないよなと思っています。

そんなふうに思えるくらいに、年を取ると図太くなるのでしょう。

 

いやそれにしても、ロック界隈に心酔していた頃によく「これはロックだ」「あれはロックじゃない」みたいなことを誰も彼もが言い合ってたような気がしますが、本当にめんどくさい界隈だなと今になって思いますね。

そんなことはどうでもいいから、お前の人生を前に進めろよと、昔の私に言いたい。

議論に意味があるような気がしてなんたらかんたら理屈をこねていましたが、そんなことよりギターを握ってちょっとでも新しいことに挑戦するほうが有意義でした。

結局は音楽をやってるんでね。

気持ちや体が反応する音楽かどうかが全てと言うか。

本来間口の広さがロックの魅力であるはずなのに、中にいる「つもり」の人間がそれを狭めよう狭めようとやいのやいの言ってるという。

全くもって意味のない、無駄なことが起こりうるのが愚かな人間の営みでございます。

 

私はいま、バスケに対して真剣に取り組んでいるわけですが、こちらのほうがある意味、正解と不正解がハッキリしがちです。

バスケの技術というのは、ある程度は満遍なく、一通り何事もできるに越したことはないですし、何かだけに特化してもあまり活躍できません。

いやいやいや、ステフィン・カリーや富永啓生はディフェンスは苦手だけど、スリーポイントだけで一流選手じゃないですか⋯と思っている方がいればそれは正しくなく、そういう何かに特化したように見える選手も基本的なスキルは人並み外れて高いです。

その中でもスリーがスゴイっていうことです。

スポーツというのは得点であったり、記録であったり、最終的には数字で上回ることが至上の命題であるため、そのぶん評価の基準もハッキリしやすいですね。

勝つか負けるかなので、要は上手いと上手いが戦う戦場になります。

技術なり、戦術なり、それぞれの特徴はあれど、上手いと上手いが上手さを競う形になります。

ところが音楽は、下手と上手いが勝負できます。

勝負?⋯音楽において何が勝負かは自分で書いていてわからないところでもあります。

が、上手いと下手が同じステージに上がって、下手のほうが評価を勝ち取ることもあるのが音楽です。

そりゃ、場所にもよりますけどね。

 

そんなふうに私は考えているので、バスケを散々やって帰宅し、音楽に触れる前にはマインドを切り替えないといけません。

ふと思うのですが、より人の一生に近い考え方というのは、どちらの方でしょうか。

私は音楽のように考えて生きるのが楽しいような気がしているのですが、人によってはスポーツのように考えて生きたほうが良いと思う人もいるのでしょう。

私にとってはスポーツのほうが擬似的というか、そこでしか経験できない、鍛えられない部分があるものと思っていて、それはつまり生活からは遠いものだと思っています。

やって無駄ではないと思っているので、続けているわけです。

でも生活というか、人間の営みの本質は音楽的であって欲しいと思っています。

価値観は勝ち負けのように統一されたくはないですね。